フォークランド紛争(フォークランドふんそう、英語: Falklands Conflict/Crisis)とは、フォークランド諸島(スペイン語名/アルゼンチン名:マルビナス諸島。以下はフォークランド諸島で記載を統一)の領有を巡り、イギリスとアルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた紛争である。スペイン語やポルトガル語では「マルビナス戦争」(Guerra de las Malvinas)と表記されることが多い。
日本語の教材や辞典では「フォークランド紛争」と表記されることが多いが、世界的には「紛争」よりも「戦争」に該当する呼び名が用いられることが多い。ただし、イギリス陸軍のウェブサイトでは「Falklands Conflict」の語を用いている[1]。
フォークランド紛争は、近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは実戦を経験していなかったが、この紛争で定量的に評価されることになった。また、アルゼンチンはイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの西側第三国で設計開発された兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴があった。
アルゼンチン軍の攻撃によりイギリス軍は多数の艦船と乗組員を失い、戦争中のイギリス軍の艦艇の損失はアルゼンチン軍のそれを大きく上回ったが、揚陸作戦を成功させ、経験の豊富な地上軍による陸戦や長距離爆撃機による空爆、同盟国であるアメリカ軍の援助を得た情報戦を有利に進めた結果、最終的に勝利を収めた。
アルゼンチン軍は果敢な航空攻撃によりイギリス海軍艦艇に大きな損害を与えたが、イギリス軍の逆上陸を阻止できず、また一部で頑強な抵抗を示したものの経験豊富なイギリス地上部隊に対抗できず、降伏に至った。
「フォークランド諸島」も参照
「独裁王」フアン・マヌエル・デ・ロサス統領の時代に入ると、1829年にアルゼンチン政府に海域の通行料を払わなかったアメリカの捕鯨船三隻が拿捕されたのをきっかけに、ブエノスアイレスのアメリカ領事は「島の主権がイギリスにある」と訴えて、アンドリュー・ジャクソン大統領が派遣したアメリカ海兵隊が上陸し諸島の中立を宣言した。
1833年にはアメリカ軍に代わりイギリス軍が再占領し、領有権をめぐって再び対立した。アルゼンチン政府は島の返還を求めていたが、ウルグアイにおける大戦争のため、諸島を奪還することが出来なかった。
カセーロスの戦いによるロサス追放後、自由主義者の政権はイギリスと友好関係を持つ傍ら、イギリスを牛肉などの輸出市場としていたため領有権を持ち出すことをしないまま150年近い時間が経ち、紛争に至った。
既に1930年代のアルゼンチンにおけるロサス再評価と共にマルビナス奪還はアルゼンチン国粋主義者の悲願となっていたが、歴史が動き出したのは1981年に、双方で政権が交代したことに端を発する。
[編集] アルゼンチン情勢
アルゼンチンは最初直接交渉で、第二次世界大戦後は国際連合を通じた交渉で穏健策をとり、1960年代以降にはイギリスの維持能力を超えていたこの諸島に様々な行政、医療サービスを行いながら、イギリスに対してフォークランド諸島の返還を求め続けていた。これに対してイギリスも条件付ながら返還を認めるとしてきたが、1982年からアルゼンチンはあくまで無条件返還を求めたため交渉は平行線をたどり難航していた[2]。
アルゼンチンは1950年代までは畜産物と穀物輸出から得られる外貨と、その外貨を国民に分配した左翼民族主義者の大統領フアン・ペロンのポプリスモ政策によって先進国並みの生活水準を誇っていたものの、保守派と結託した軍のクーデターでペロンが追放されると、ペロン派(ペロニスタ)や、その流れを汲む都市ゲリラ(モントネーロスやペロニスタ武装軍団など)と軍部による20年以上にも及ぶ政治の混乱が天文学的なインフレと失業を招き、牛肉など食料品の値上げにより国民生活を深刻な状況に陥れていた。
1976年にイサベル・ペロンを追放して誕生したホルヘ・ラファエル・ビデラ軍事政権は、それまでよりも弾圧の姿勢を強めてペロニスタや左翼を徹底的に弾圧し、この「汚い戦争」で8,000人から30,000人が「行方不明」(実際は治安部隊に暗殺されたが、事件そのものが「存在しないこと」とされ、統計上行方不明になった)になったといわれる。このようにして行方不明になった人間には当然テロやゲリラや左翼と無関係の市民も大勢いた。そして経済状況が一向に改善しないにもかかわらず、こういった政争に明け暮れる政権に対して民衆の不満はいよいよ頂点に達しようとしていた。
軍事政権は、当初よりしばしばフォークランド諸島に対する軍事行動をちらつかせてはいたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。だが、かかる状況下で軍事政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリ(現役工兵中将でもあった)は、民衆の不満をそらすために必然的ともいえる選択肢を選んだ。既にアルゼンチンの活動家が上陸して主権を宣言するなどの事件も起きており、フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。
[編集] イギリス情勢
第二次世界大戦においてイギリスは国力を消耗し、長引く不況や硬直した政治、社会制度による深刻な財政難に悩まされていた。ほとんどの植民地や海外領土を手放さざるを得なかったこともあり、「陽の落ちることが無い」とまで言われたかつての大英帝国はこの頃には跡形も無く、イギリス本国は英国病から抜け出せずにイギリス連邦がその役割を引き継いでいた。
大戦後に手放さずに済んだ海外領土の一つであるフォークランド諸島は、イギリス本国への羊毛の輸出でどうにか成り立っており、フォークランド諸島民は二等市民として扱われて、本土との定期航空便もないなど本国からあまり面倒を見られずに、アルゼンチンからの医療などにおける様々な援助のおかげでどうにか維持されていたような状態だった。
このように島自体の経済的価値は相対的に低かったものの、フォークランド諸島は冷戦下において南大西洋における戦略的拠点として非常に重要な位置を占めていた。パナマ運河閉鎖に備えてホーン岬周りの航路を維持するのに補給基地として必要であった上、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としても価値がにわかに高まっていた。
保守党はエドワード・ヒースが政権を握っていた頃、1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、それ以上の実質的な進展はアルゼンチン側が主権問題を取り上げて拒んだ[3]。当時の国務大臣であるニック・ヒドリーによって提案された「引き続いてイギリスが統治するものの主権はアルゼンチンに移譲する」というリースバック案があったものの、すでにイギリス人入植者が多数を占めていたフォークランド諸島の住民の意向に沿ったものではなかったため下院で不採用が決議された。
こういった経緯を含め、国際連合憲章第1条第2項に則った人民の自決の原則を理由に、1979年にイギリス首相へ就任したマーガレット・サッチャーはあくまでフォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていた[4]。
[編集] 両国の衝突
その後1982年に、民衆の不満をそらすためにガルチェリ政権が問題をクローズアップさせたことで、アルゼンチンではフォークランド諸島問題が過熱ぎみになり、民衆の間では政府がやらないなら義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。
この様な動きに対して、アルゼンチン政府は形だけの沈静化へのコメントを出すものの、3月には海軍艦艇がフォークランド諸島の東約1000kmにある同じくイギリス領となっていたサウス・ジョージア島に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させるなどして武力行使への動きを見せ、イギリスのサッチャー首相はサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すとともに3月28日にアメリカの国務長官であるアレクサンダー・ヘイグに圧力をかけるよう依頼し、フォークランド諸島へ原子力潜水艦の派遣を決定した。
当初はガルチェリの思惑通り事は進み、大統領官邸前には大統領の決定を支持する民衆で埋め尽くされた。3月31日、アルゼンチンが正規軍を動かし始めたとの報せを受けて、4月1日にイギリス首相のサッチャーはアメリカ大統領のロナルド・レーガンに事態収拾への仲介を要請し、閣議を招集して機動部隊の編成が命じられた。しかし、翌2日にはアルゼンチンの陸軍約4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧したことで武力紛争化した。
4月2日に下院で機動部隊派遣の承諾を受け、5日には早くも航空母艦2隻を中核とする第一陣が出撃した。到着までの間、アメリカ国務長官や外相フランシス・ピムのシャトル外交により事態の打開が模索されていたが、イギリス側は同諸島の統治が島民の意思を尊重することであったのに対し、アルゼンチン側は同諸島での現地統治とその参政権をアルゼンチン島民にも与えることであった[5]。また、排他海域の設定やフォークランドへ向かっているイギリスの機動部隊を停止するなど撤退に関することも協定案としてやり取りがあったものの、24日にアルゼンチンの協定案ではイギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないようにした文章が含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的であることや外交を時間稼ぎに使われているのではないかという懸念を持った[6]。
25日にはフォークランド諸島に続いて占領されていたサウス・ジョージア島にイギリス軍の特殊部隊が逆上陸、同島におけるアルゼンチン陸軍の軍備が手薄だったこともあり即日奪還した。その後も国連で和平案の議論が行われたが、態度を硬化させたアルゼンチンにサッチャーは、「我々は武力解決の道を選択する」と決断した。
アルゼンチン軍は、巧みな航空攻撃により幾度となくイギリス海軍の艦船を撃沈するなど、地の利を生かして当初は有利に戦いを進めたものの、イギリス軍は地力に勝る陸軍、空軍力と、アメリカやEC及びNATO諸国の支援を受けた情報力をもってアルゼンチンの戦力を徐々に削っていき、6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊を上陸させた。同諸島最大の都市である東フォークランド島のポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)を包囲し、14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏。戦闘は終結した。
[編集] 戦争前夜
詳細は「サウスジョージア侵攻」を参照
1982年3月19日、フォークランド諸島沖合東約1000km東に位置するサウス・ジョージア島にアルゼンチン海軍の輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」が突如来航。20年以上前から放棄されていた捕鯨工場の解体と称してアルゼンチンのクズ鉄業者を名乗る60名近いアルゼンチン人を入国手続きを一切無視して上陸させた。上陸したアルゼンチン人たちはアルゼンチン国旗の掲揚や国歌斉唱を行うなど同島に居座るような行動を取る。これに対し、イギリス政府はアルゼンチン政府に厳重に抗議するとともに氷海巡視船「エンデュアランス」に武装した海兵隊22名と軍用ヘリワスプ2機を積載して同島海域に派遣[7]。するとアルゼンチン側は輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」を引き揚げさせたものの、数十人のアルゼンチン人を残していった挙句、3月26日にそのアルゼンチン人同胞の警護と称し、アルゼンチン海軍砕氷艦「バイア・パライソ」にて武装した海兵隊員約500名と物資をサウス・ジョージア島に送り込み、同島のリースハーバーに陣取る。
この直後からアルゼンチン海軍の動きが活発化し、軍事演習と称して空母、駆逐艦、フリゲート艦、潜水艦、輸送艦などの移動を開始。イギリス側は3月28日に海兵隊44名を増援として「エンデュアランス」に送り込むと同時に機動艦隊の派遣準備を始める[7]。3月30日、アルゼンチン海軍はフォークランド諸島への本格的な上陸作戦を開始。空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」を旗艦とし、駆逐艦7、フリゲート艦3、輸送艦3、揚陸艦1で編成された第79機動艦隊を陸軍4000名の将兵と共にフォークランド諸島へ出撃させる。
[編集] 「ロザリオ作戦」
詳細は「フォークランド諸島進攻」を参照
移動期間を含め3月30日から4月3日にかけて行われたアルゼンチン軍のフォークランド島上陸作戦は「ロザリオ作戦」と名付けられた。作戦計画では同国の国旗の色をとって「青作戦」(Azul)と呼ばれていたが最終的に改名された。上陸活動は大きく2つに分けられる。ゴムボートに分乗した少数のコマンド部隊による深夜の隠密上陸と、4月2日早朝に実行された水陸両用車両を使った比較的大掛かりな上陸である。
いずれにしてもアルゼンチン軍側も総員900名という、歴史的にみれば小規模な上陸作戦であるが、それに対抗しうるイギリス軍戦力は79名の海兵隊員に過ぎなかった。アルゼンチンの上陸軍は、圧倒的な戦力差を見せつけて早期にイギリス軍を降伏させることが狙いであった。また、国際世論を考慮して、できる限り無血で作戦を完遂させることが目標とされた。この作戦は直前にアメリカの偵察衛星により発見されており、アメリカは作戦の中止を求めたが、既にアルゼンチン軍部は引き返すことのできないところにまで来ていた。
4月1日夜、42型駆逐艦「サンティシマ・トリニダード」が東フォークランド島沖合1海里に到着して21隻のゴムボートを降ろし、1時間半ほどかけて92名の上陸コマンド部隊の隊員をそれらに移乗させた。ゴムボートは夜11頃、砂浜に到着し、コマンド部隊は2隊に分かれて目的地、すなわちイギリス海兵隊員が眠る兵舎と総督邸を目指した。兵舎制圧部隊は午前5時半に兵舎に到着したが、そこは無人であった。一方、総督邸に向かった16人の分遣隊は、そこで予想外に多い42名(31名の海兵隊員と11名の水兵)の武装兵と射撃戦闘を行うことになった。まもなく、無謀な突撃を行ったアルゼンチン軍コマンド隊員の1名が致命傷を負った。分遣隊は、遮蔽物に隠れ援軍を待つことになった。
水陸両用車両(アメリカ製のアムトラックやLVTP7水陸両用装甲兵員輸送車)を使った上陸部隊本隊による攻略目標は、スタンレー空港と島都スタンレーである。4月2日未明に、まず潜水艦「サンタフェ」から潜水具を装備した少数の偵察隊が空港の北部沿岸に上陸し、岬の灯台を占拠。次いで、揚陸艦「カボ・サン・アントニオ」 (ARA Cabo San Antonio) が、空港沖合から水陸両用車両20両を発進させ、偵察隊の灯台からの誘導を受けながら最初の目標であるスタンレー空港へ向かった。空港の滑走路には古い乗用車やコンクリートの塊がアルゼンチン軍機の着陸阻止の目的で置かれていたものの、空港は無人であったため、上陸部隊は容易に空港を占領することができた。
[編集] アルゼンチン軍によるポート・スタンレー占領
その後もスタンレー空港から島都に向かう途中に遭遇した若干の抵抗を除けば、イギリス海兵隊からの反撃は無く、北部海域に展開していたアルゼンチン艦隊旗艦の空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」から発艦した輸送ヘリコプターによるアルゼンチン海兵隊の増援も到着し、島都のスタンレーもまもなくアルゼンチン軍の占領するところとなった。
イギリスのレックス・ハント総督は、圧倒的な兵力を擁するアルゼンチン軍の将軍からの降伏勧告を受け入れ、抵抗するイギリス海兵隊へ武器の放棄を命じた。4月2日午前9時半にイギリス軍は降伏し、アルゼンチン軍はフォークランド諸島全域を手中に置いた。
この作戦でアルゼンチン軍は戦死者1名、負傷者数名を出したが、アルゼンチン軍の当初の狙い通りイギリス軍に死傷者は出さなかった。後日、ハント総督とその家族および全イギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。
[編集] アルゼンチン軍によるサウス・ジョージア島占領
ポート・スタンレー占領の報を受けたサウス・ジョージア島のアルゼンチン海兵隊は同日4月2日に同島の占拠を開始。リースハーバーに留まっていた約500名のアルゼンチン海兵隊員の内、40名が砕氷艦「バイア・パライソ」に移乗してピューマヘリコプター2機による制圧作戦を開始。増援として派遣されたアルゼンチン海軍A69型フリゲート「ゲリコ」の支援を受けながら翌日4月3日正午より島都のグリトビケンに上陸を開始した。
対してサウス・ジョージア島守備隊のイギリス海兵隊はわずか23名と圧倒的不利に立たされていたが、アルゼンチン側の降伏勧告を拒否。地の利を生かして激しく応戦し、上空援護を行っていたアルゼンチン海軍のピューマヘリを機関銃で撃墜。さらにキングエドワードポイント埠頭近海に接近し、機関砲による援護射撃を行っていた「ゲリコ」へ84mmカールグスタフ無反動砲とM72 LAWによる攻撃を加えて主砲や対艦ミサイル発射機を使用不能に追い込むなどした。
約2時間に渡る戦闘の後、弾薬の尽きたイギリス海兵隊は全員アルゼンチン軍に降伏。イギリス側の軽傷者1名に対し、アルゼンチン側は死者4名重傷者1名という結果に終わった。 スタンレーのイギリス海兵隊と同じく捕虜となった守備隊のイギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。
[編集] 国際社会とECの反応
4月3日には、アルゼンチンとイギリスの間の開戦を受けて開かれていた国連安全保障理事会において決議第502号が出され、アルゼンチンのフォークランド諸島一帯からの撤退を求めた。
翌4月4日には、アルゼンチン政府が国内にある全てのイギリス資産を凍結した。これに対して、4月10日にはイギリスが加盟するECが対アルゼンチン経済封鎖を承認し、西ドイツやフランスなどの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行った。なお4月29日にはアルゼンチン政府はアメリカによる調停案を拒否した。
[編集] チリの反応
アルゼンチンの隣国のチリは、以前からパタゴニアのビーグル海峡地域においてアルゼンチンと国境問題を抱え、たびたび小規模な武力衝突を起こしていた上に、1981年末には戦争寸前となるなど対立状況が続いていたことから、大統領アウグスト・ピノチェトはアルゼンチンを「侵略者」として非難してイギリスへの支援を表明し、自国内の基地を提供するなど積極的にイギリスに協力した。
さらに、チリが戦争のどさくさにまぎれて参戦してくることを恐れたアルゼンチンが、イギリスとの戦争中にもかかわらず対チリ戦に備えて多くの戦力を本土に温存せざるを得ない状況に追い込むなど、実質的にイギリスの同盟国として機能した。
[編集] イギリス軍の攻撃準備とアルゼンチン軍守備隊の戦力増強
4月3日にイギリス政府から機動艦隊編成の命を受けたイギリス軍では派遣部隊と機動艦隊の編成が急ピッチで進められた。艦隊旗艦とされた空母「ハーミーズ」ともう一隻の空母「インヴィンシブル」にはそれぞれ新たに編成されたイギリス海軍第800飛行隊12機、第801飛行隊8機のシーハリアー FRS.1が配備された。このシーハリアーは当時の新型空対空ミサイルであったAIM-9Lサイドワインダーを搭載していた。また、空軍のハリアー GR.3に空母で運用するための改造(防水措置やレーダートランスポンダーの増設等)が施された他、空対空戦用のミサイルランチャーの増設も行われたが、結局このランチャーはハリアー GR.3の運用が対地攻撃のみに限定されることになったため、後に増援として空母に配備された際に取り外された。
更に本来核攻撃用に配備されていたイギリス空軍の第44、第55、第101飛行隊のバルカン爆撃機が長距離爆撃のために慣性航法装置の改良や通常爆弾21発の投下が可能なように改造され、パイロットらは空中給油の再訓練を行った。
イギリス海軍は4月5日に艦隊旗艦の空母「ハーミーズ」を中核とした空母2、駆逐艦10、フリゲート艦13、揚陸艦8隻、輸送艦他支援艦16の計49隻から成る機動艦隊である第317任務部隊をポーツマス港より出撃させた。
なぜ絶滅危惧種を保存しますか?
イギリス軍はフォークランド諸島奪還の中継基地としてフォークランド諸島北西約6000kmのイギリス領アセンション島、ワイドアウェーク基地を利用。4月5日から18日にかけ、イギリス空軍の第42、第120、第201、第206飛行隊のニムロッド偵察機、第55、第57飛行隊のヴィクター給油機の部隊の他、艦隊の支援のための補給物資が次々と到着した。
また、4月12日には先行してフォークランド諸島に向かっていたイギリス海軍の潜水艦隊が同海域に展開。イギリス政府はフォークランド諸島の半径200海里(370km)を封鎖海域とし、以後この海域に他国籍の艦船の侵入を禁じた。
一方、フォークランド諸島ではアルゼンチン軍による防衛準備が進められ、歩兵部隊、装甲車両、レーダー設備、野砲や対空機関砲、対空ミサイル発射機などの兵力が輸送艦、輸送機により運び込まれた。4月12日以降のイギリス海軍の海上封鎖から大規模な揚陸はできなくなったものの、輸送機による空輸や小規模な海上輸送は続けられ、同島のアルゼンチン軍守備隊の総兵力は9000名を超えた。さらに制圧したポート・スタンレー、グース・グリーン、ペブル島の各飛行場にアルゼンチン空軍第1、第3グループと海軍の第1、第4航空隊の軍用機(プカラ攻撃機、マッキ軽攻撃機、ターボメンター軽攻撃機等)約30機や陸軍の輸送ヘリ部隊が配備され、戦力の増強が図られた。
また、アルゼンチン本国では空海軍の航空隊がフォークランド諸島に近いリオ・グランデ、リオ・ガジェゴス、サン・フリアン、トレリューなどの南部の基地に展開し、イギリス海軍への要撃準備が進められた。更に当時アルゼンチン海軍が導入したばかりのシュペルエタンダール攻撃機に、購入したばかりであった5発の空対艦ミサイル・エグゾセAM39の搭載と使用準備が進められた。
[編集] イギリス軍の反撃開始
詳細は「パラケット作戦」を参照
4月18日にはイギリス海軍の機動部隊がアセンション島を出港。駆逐艦「アントリム」、フリゲート艦「プリマス」の2隻がサウス・ジョージア島奪回の任務を帯び、イギリス陸軍特殊部隊SASとイギリス海兵隊を積載して機動艦隊から離れタスクフォースを編成。サウス・ジョージア島近海に先行していた氷海巡視船「エンデュアランス」と合流し同島の奪還作戦を開始する。
4月21日にSASによるサウス・ジョージア島上陸偵察が行われたが、悪天候で中止せざるをえなくなった。撤退時にイギリス海軍のウェセックス HU.5ヘリコプターが2機が墜落する事故を起こし、4月22日深夜にはイギリス海兵隊特殊舟艇隊 (SBS)がゴムボートによる偵察上陸を行うも一部が悪天候のために遭難するという事態となる(どちらもイギリス軍により救助された)。
4月23日にはアルゼンチン海軍の潜水艦が接近しているとの情報を受けたタスクフォースは一旦、同海域から退避。機動艦隊から増援に駆けつけたイギリス海軍フリゲート艦「ブリリアント」が合流し、4月24日より艦載ヘリコプターによる掃海作戦を実施する。
4月25日に、サウス・ジョージア島のアルゼンチン軍守備隊へ物資輸送任務を行っていたアルゼンチン海軍潜水艦「サンタフェ」が掃海中のイギリス海軍艦載ヘリコプターに発見され、攻撃を受け損傷。同日サウス・ジョージア島に擱座、放棄された。同日中に駆逐艦「アントリム」の艦砲射撃による援護を受けながらイギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸。アルゼンチン陸軍はサウス・ジョージア島を重要視していなかったことから守備隊は即降伏したため、同島の陸上での戦闘はほとんどなく、イギリス軍はサウス・ジョージア島の奪回に成功する。
以後、タスクフォースは同島に駐在部隊を残して再び機動艦隊に合流し、本格的なフォークランド諸島奪還を始める。
[編集] 「ブラックバック作戦」とシーハリアーによる空襲
詳細は「ブラック・バック作戦」を参照
5月1日にイギリス軍は、アセンション島を基地とするバルカン爆撃機、空母から発進したシーハリアーによる空爆、戦闘艦艇による艦砲射撃の三段階の攻撃により、東フォークランド島のスタンレー空港および、同島の中央に位置するグース・グリーン飛行場を使用不能とする計画を立てた。その第一段階がバルカン爆撃機1機によるスタンレー空港の爆撃で、これを「ブラックバック作戦」 (Operation Black Buck) と呼ぶ。
この作戦に参加した航空機は、バルカン爆撃機2機(内、同行予備機1機)とヴィクター K.2空中給油機15機(内、同行予備機4機)である。1000ポンド爆弾を21発搭載して長大な距離を往復するということと万一の場合に任務を代行するための予備機が同行したこと、そして給油機への給油も必要であったため、このような多数の給油機を必要とした。爆撃機と給油機の各1機が離陸後しばらくして機械関係のトラブルに見舞われ、実際の爆撃は予備機にて行われることとなった。この予備のバルカン爆撃機はポート・スタンレー飛行場へ21発の爆弾を投下。内4発の爆弾がスタンレー空港施設に着弾し、4発の内1発が滑走路を直撃した。
バルカン攻撃機の空爆直後、イギリス海軍機動部隊がポート・スタンレーの東180kmまで接近し、軽空母ハーミーズから飛び立った第800飛行隊のシーハリアー FRS.1のうち9機がポート・スタンレー飛行場へ、3機がグース・グリーン飛行場へ空爆を行った。
ポート・スタンレー飛行場へ向かった9機は1000ポンド爆弾とクラスター爆弾で滑走路や対空陣地を攻撃。アルゼンチン側は陸上に設置したタイガーキャット対空ミサイルや高射砲で迎撃するも失敗し、空港施設などを破壊される。
また、グース・グリーン飛行場では、3機のシーハリアーが1000ポンド爆弾、クラスター爆弾で滑走路を空爆。離陸直前だったプカラ攻撃機の1機ごと滑走路を破壊して使用不能に追い込み、駐機していた他の4機のプカラ攻撃機を大なり小なり損傷させた。なお、後にアルゼンチン政府はこの離陸直前に乗機を撃破されて死亡したプカラ攻撃機パイロットの空軍中尉を『単独で空母を攻撃して撃墜された英雄』と脚色して報道し、真相を知っていたアルゼンチン空軍のパイロットらから大顰蹙を買った。
ハリアーの空爆後、作戦の総仕上げとして駆逐艦「グラモーガン」とフリゲート艦「アラクリティ」、「アロー」の3隻が日中と夜間の2回に分けてスタンレー空港と周囲の砲兵陣地に向けて艦砲射撃を加えたが、ヘリコプターの砲撃観測がなかったため不正確なものとなり、被害は軽微なものにとどまった。
この一連の攻撃で以後スタンレー空港は滑走路の損傷から戦闘機や爆撃機などの大型機の発着が不可能となったが、STOL性能を持つC-130やエレクトラ、フォッカーF28フェローシップ等の輸送機や長い滑走路が不要なマッキ攻撃機などは運用が可能であり、アルゼンチン軍は終戦間際までこの空港を活用しつづけた。
この日はアルゼンチン空軍第6グループのダガー攻撃機によるイギリス海軍艦艇への最初の航空攻撃が行われ、上空警戒の任を受けていたイギリス海軍第801飛行隊のシーハリアーとダガー攻撃機の援護で追従してきたアルゼンチン空軍第8グループのミラージュ戦闘機との間で空中戦が発生した。爆装した第6グループのダガー攻撃機3機はポート・スタンレーを艦砲射撃していた駆逐艦群に攻撃を行ったものの一部の艦艇に軽い損傷を与えただけに留まり、空対空ミサイルを装備して空中戦に参加した他のダガー攻撃機2機と前述のミラージュ戦闘機2機がシーハリアーによって撃墜されている。
なお、バルカン爆撃機を用いた「ブラックバック作戦」はこれ以降も数回続けられたが、通常爆弾による滑走路破壊はほとんど失敗に終わり、シュライク対レーダーミサイルを用いたレーダー施設の破壊で一定の戦果を挙げている。
[編集] ヘネラル・ベルグラーノの撃沈
4月末日、アルゼンチン海軍は接近するイギリス機動艦隊に対し、艦隊を三方向から向かわせていた。北方より空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」旗艦とする空母と駆逐艦「サンティシマ・トリニダード」、「ヘルクレス」他数隻で構成される機動艦隊。中央(西方)より艦対艦ミサイルエグゾセMM38搭載のA69型フリゲート艦「ドゥルモンド」、「ゲリコ」、「グランビル」の3隻からなるミサイル打撃艦隊。そしてフォークランド諸島南方から周り込むような形で巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」、駆逐艦「イポリット・ボチャルド」、「ピエドラ・ブエナ」の3隻の艦隊がイギリス側の封鎖海域の外から突入の準備を行っていた。
アルゼンチン海軍は「ベインティシンコ・デ・マジョ」の艦載機A-4スカイホークによる空爆とA69フリゲート群による対艦ミサイル、そして「ヘネラル・ベルグラーノ」の艦砲による挟撃を行い、イギリス機動艦隊へ大打撃を与える算段だった。
ところが「ベインティシンコ・デ・マジョ」の艦載機の発艦が不能となり(この理由には諸説あり。一番有力とされているのは当時その海域に風が全く出ていなかったこと、かねてより不調だった機関部のせいで同艦の速度が上がらなかったこと等が重なり、発艦のための対気速度が足りなかったというもの。他にも天候不良などが原因とも報道されている)、「ベインティシンコ・デ・マジョ」の機動艦隊とフリゲート群は攻撃を取りやめ、アルゼンチン本国側に撤収し、「ヘネラル・ベルグラーノ」の艦隊は南方の海域、封鎖海域の外に留まり続けていた。
4月30日に同海域を哨戒中だったイギリス海軍の原子力潜水艦「コンカラー」が「ヘネラル・ベルグラーノ」の艦隊を発見し、追尾。封鎖海域の外にベルグラーノはいたものの、全速で航行すればイギリス機動艦隊を6時間近くで射程に入れる距離にいたこと、同海域の水深からこれ以上北進されると追尾が難しくなる可能性があったことから、「コンカラー」の艦長クリストファー・リーフォード=ブラウン中佐は衛星通信によりイギリス本国のイギリス艦隊作戦本部と機動艦隊司令部に通報し、指示を仰いだ。
5月2日にイギリス艦隊作戦本部より「コンカラー」に封鎖海域外での攻撃命令が下り、16時頃に「コンカラー」は「ヘネラル・ベルグラーノ」に4発のMk8魚雷を発射。内2発がベルグラーノに命中し、艦首を喪失したベルグラーノはわずかな時間で沈没、撃沈された。多くの乗組員は救命ボートで脱出し難を逃れたものの、艦長エクトール・E・ボンソ以下1092名の乗員のうち、383人の乗員と共にベルグラーノは海に沈んでいった。残った駆逐艦「イポリット・ボチャルド」、「ピエドラ・ブエナ」は「コンカラー」を追撃し爆雷で攻撃したが、効果的な攻撃は出来ずに結局取り逃がすことになった。この後、アルゼンチン海軍水上艦部隊の主力艦艇は損失を恐れ、原潜が活動しにくい大陸棚から離れることはなかった。2日夜には撃墜されたキ� ��ンベラ爆撃機のパイロット捜索に派遣されたアルゼンチン軍哨戒艇2隻がイギリス海軍のヘリコプターと会敵し、リンクスヘリコプターのシースクア対艦ミサイル攻撃を受けて1隻が撃沈され、もう1隻も大破し、撤退した。
[編集] シェフィールドの撃沈
5月4日には、アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機が空対艦ミサイル・エグゾセAM39でポートスタンリーの南西75海里にいたイギリス機動部隊に攻撃を行った。リオ・グランデ基地より離陸した2機のシュペルエタンダールは空中給油を受けた後、友軍のトラッカー哨戒機の誘導を受けながらレーダーを切った状態で海上15mという低高度で接近。この超低空で接近する攻撃機隊をイギリス艦隊はレーダーで捉えることができず、シュペルエタンダールはイギリス艦隊近海でわずかに上昇してレーダーで艦船の1隻をロックオンし、エグゾセを発射して即退避。
結果、発射された2発のエグゾセの内、1発が当時レーダーピケット任務中だったイギリス海軍42型駆逐艦「シェフィールド」に命中した。この1発は不発だったが、残っていた燃料の燃焼と命中による配電盤の損傷でダメージコントロールがほとんど不可能になり、同艦は炎上、乗組員は総員退艦した。その後上部構造物がほとんど焼き尽くされた状態で鎮火したシェフィールドは12型フリゲート「ヤーマス」に曳航されるも、浸水が激しくなり5月10日に沈没した。なお、残る1発のエグゾセは射程外から発射されたため途中で墜落した。
この「シェフィールド」撃沈の他、イギリス機動艦隊は5月1日から10日の間にアルゼンチン海軍の209型潜水艦「サン・ルイス」から、たびたび雷撃を受け、対潜行動を強いられることになり、艦艇の損失を避けるべく大幅にその活動範囲を狭めることになる。この為、イギリス、アルゼンチン両海軍艦艇同士による大規模な海戦は戦争の全期間を通じて一切行われず、その後艦艇への攻撃は航空機によるものが中心となった。
[編集] イギリス軍の逆上陸
5月4日には爆撃中のイギリス海軍のシーハリアー1機が対空砲火で撃墜され、シーハリアー初の損失となった。また6日には同2機が悪天候の中、おそらく空中衝突で失われた。9日には情報収集に当たっていたアルゼンチンのトロール漁船「ナルワル号」がシーハリアーによって撃破され、ピューマヘリコプター1機が42型駆逐艦「コヴェントリー」のシーダート対空ミサイルで撃墜された。
このころからイギリス海軍は上陸地点の偵察活動を活発化させ、フォークランド海峡内に艦艇を送り込むようになった。10日に海峡内に侵入した21型フリゲイト「アラクリティ」は、アルゼンチン軍の輸送艦「イスラ・デ・ロス・エスタドス」を砲撃し、撃沈した。これがこの紛争で唯一の水上艦同士の海戦だった。
12日には、アルゼンチン軍のスカイホーク8機により、イギリス海軍の42型駆逐艦「グラスゴー」と22型フリゲート「ブリリアント」に対する攻撃が行われ、「グラスゴー」に爆弾を命中させたが不発だった。またこの攻撃の際「ブリリアント」のシーウルフ対空ミサイルにより3機のスカイホークが撃墜され、さらに1機がアルゼンチン軍の対空砲火の誤射で撃墜された。
詳細は「ペブル島襲撃」を参照
14日から16日にかけてイギリスのSBSならびにSASの上陸作戦が行われた。14日にペブル島の飛行場をSASの中隊が襲撃し、駐機していたプカラ攻撃機などのアルゼンチン軍の航空機11機すべてを爆薬で破壊して撤退した。これによりアルゼンチン軍はフォークランド諸島の航空機の三分の一近くを一度に喪失するという大損害を受ける(ペブル島襲撃)。またSBSによる陸上への観測ポストの設置が行われた。この間、イギリス艦艇はポート・スタンリー周辺を陽動のため艦砲射撃している。16日にはフォークランド海峡にてアルゼンチン軍輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」、「リオ・カルカナーラ」がシーハリアーの攻撃を受け「バイア・ブエン・スセソ」が沈没、「リオ・カルカナーラ」が座礁している。
5月17日には増援としてイギリス海軍徴用コンテナ船「アトランティック・コンベイヤー」によって輸送されてきたイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の6機が空母「ハーミーズ」に配備され、対地攻撃への参加を始めた。
また、エグゾセミサイル対策として欺瞞装置を搭載したリンクスヘリコプターも届けられ、空母二隻に配備。以後戦争終結まで何時でもスクランブル発進が可能なように甲板に待機していた。
5月21日未明から午前中にかけて、SASがグースグリーン周辺に降下して陽動を行うと同時にイギリス陸軍空挺大隊を中核とする部隊が東フォークランド島西側のサン・カルロスに上陸を開始し、橋頭堡を築いた。イギリス軍は抵抗をほとんど受けずに上陸し、この作戦でのイギリス軍の損害はガゼル2機など軽微だった。
[編集] アルゼンチン軍によるイギリス海軍艦艇の相次ぐ撃沈
イギリス軍の逆上陸を許したものの、5月21日午後からアルゼンチン空海軍機による海峡内のイギリス海軍艦艇攻撃が開始され、アルゼンチン軍機の爆撃により21型フリゲート「アーデント」が撃沈された。これ以外にも多くの艦艇が損害を受けた。しかし揚陸艦を含む上陸部隊に損害はなく、当日までに3000名の兵員と1000トンの物資が上陸した。イギリス側はこの日アルゼンチン軍機を13機撃墜したとしている。
続いて5月23日には、アルゼンチン軍のA-4攻撃機が「アーデント」と交代した21型フリゲート「アンテロープ」を攻撃し、500kg爆弾2発を命中させた。これは不発弾であったが信管除去作業中に爆発し、「アンテロープ」は翌24日に沈没する。このようなアルゼンチン軍機による攻撃に対し、早期警戒機を欠き、十分な哨戒時間が取れないシーハリアーによる防衛体制はほとんど機能しないままであった。
さらに5月25日には、アルゼンチン空軍第5グループのA-4Bが42型駆逐艦「コヴェントリー」と22型フリゲート「ブロードソード」を攻撃し、「コヴェントリー」に爆弾3発を命中させ撃沈に成功した。
その直後、アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機がイギリス空母機動部隊を攻撃し、空対艦ミサイル「エグゾセ」AM39の2発を発射した。イギリス海軍艦艇はエグゾセの探知には成功し、各艦艇のチャフロケットとデコイを搭載したリンクスヘリコプターによりエグゾセに対抗した。しかしチャフにより目標を逸れたエグゾセ1発がイギリス海軍徴用コンテナ船「アトランティック・コンベイヤー」に命中し、「アトランティック・コンベイヤー」は大破炎上、30日に沈没した。「アトランティック・コンベイヤー」により輸送されてきたシーハリアー、ハリアーGR.3はすでに「ハーミーズ」と「インヴィンシブル」に移動していたため、損害はなかったが、まだ積まれていたチヌーク3機、ウェセックス6機、リンクス1機の 計10機のヘリコプターが失われた他、軍用トラック、航空機整備部品、爆弾などの装備、臨時滑走路構築用の資材など大量の物資が失われ、その後のイギリス軍の作戦行動に大きな制約を与えた。特にイギリス陸軍はヘリコプターを多数失ったことで陸上における歩兵、物資の輸送に多大な影響を受け、臨時滑走路構築用の資材を失ったイギリス空軍はサン・カルロスに建設予定だったハリアー用臨時飛行場の規模大幅縮小を強いられ、航空作戦の計画を変更せざるを得なくなった。
この日の攻撃ではアルゼンチン側も3機が撃墜されたが、この一連の攻撃を受けてイギリス海軍はわずか4日間で2隻のフリゲート艦、1隻の駆逐艦、1隻の徴用艦の計4隻の大型艦船を失うこととなった。このような「第二次世界大戦時の(対日戦における)マレー沖海戦以来の失態」とまで呼ばれた相次ぐ海軍艦艇の損失と戦闘要員の喪失に、イギリス国内では海軍上層部に対する批判がマスコミを中心に巻き起こった。
[編集] ブラボー・ノーベンバー
イギリス空軍第18飛行隊は4機のCH-47チヌークヘリコプターで構成される輸送部隊としてフォークランド諸島に増援として派遣された。ところが同部隊を輸送していた「アトランティック・コンベイヤー」がミサイル攻撃で撃沈され、第18飛行隊は撃沈直前に離陸して一足先にフォークランド諸島に向かっていた1機を除く全機を失うという大損害を受けてしまう。生き残った1機はフォークランド諸島に到着するも、コンベイヤーに積載されていた予備部品や工具なども失われていたため、ろくな整備ができない状況になり、大きな活躍はできないとされていた。しかしながら整備兵らの尽力により、同機は4月26日から戦争終結まで弾薬や野砲の輸送、イギリス軍兵士やアルゼンチン捕虜の輸送に活躍することができた。その奮迅ぶりから同� ��は無線のコールサイン『ブラボー・ノーベンバー』の愛称で兵士らから親しまれることになった。
[編集] イギリス陸軍の侵攻と「グース・グリーンの戦い」
サン・カルロスから逆上陸を果たしたイギリス陸軍部隊は5月26日より東フォークランド島各所に進出を開始した。陸軍空挺連隊第2、第3大隊はそれぞれ南部のグース・グリーン、ポート・ダーウィン方面と西のティール入江方面へ、海兵隊第42コマンド大隊は北東のポート・スタンレー方面ケント山周辺へ進軍を開始。
グース・グリーンへ進出したイギリス陸軍空挺連隊第2大隊約450名の軍勢は28日ごろにカミラ水路近辺にてアルゼンチン陸軍第2、第12歩兵連隊を中核とする約1600名の部隊と接触し交戦を開始、「グース・グリーンの戦い」が起きる。
熱帯低気圧
イギリス軍空挺連隊第2大隊は第8砲兵隊の砲撃と空軍の第1飛行隊のハリアーの上空援護を受けながらアルゼンチン軍の陣地に進撃。一方のアルゼンチン側も空軍第3グループのプカラ攻撃機等、航空兵力による阻止攻撃を幾度となく行い、守備隊の陸軍歩兵部隊も対空機関砲の水平射撃を行うなどして激しく応戦した。イギリス側はこの戦闘で空挺連隊第2大隊の大隊長である陸軍中佐が戦死するなど損害を受けるも、経験と装備に勝るイギリス陸軍はこの激戦を制して陣地を突破、飛行場を制圧するとアルゼンチン軍守備隊が立てこもるグース・グリーンの町を包囲。守備隊は降伏勧告を受け入れ、グース・グリーンは5月29日早朝にイギリス軍に確保された。
この28日から29日にかけての戦いは本戦争を通して、陸上における最大の激戦となり、アルゼンチン側は250名以上が戦死。イギリス側は死者17名とアルゼンチン側と比べ少数ながらその内11名は大隊長を含んだ将校、下士官とその損失は決して小さくはなかった。
ポート・スタンレー方面に進出したイギリス海兵隊第42コマンド大隊とSASは5月30日にポート・スタンレーを見下ろすケント山をほとんど大きな戦闘もなく確保するが、その夜にケント山奪還に差し向けられたアルゼンチン軍コマンド中隊との間で激しい戦闘が行われた。アルゼンチン軍コマンド部隊を退けたイギリス側はケント山に陣地構築を開始し、ポート・スタンレーの包囲体制に入った。
[編集] フィッツロイ上陸と再度のイギリス海軍艦艇の相次ぐ撃沈
グース・グリーンを確保されるなど、地上戦では徐々にイギリス軍に押されていたアルゼンチン軍であったが、空海軍機によるイギリス海軍艦艇への航空攻撃は続いた。
5月30日午後にはアルゼンチン軍は最後の空対艦エグゾセAM39の1発を使ってイギリス機動艦隊への攻撃を敢行した。海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機(1機にエグゾセを搭載し、もう1機はレーダー故障時の誘導を担当するための補助機)と空軍第4グループのA-4スカイホーク攻撃機4機で編成された攻撃隊はイギリス艦隊へ接近し、イギリス艦隊側はこれをレーダーに捕らえた。
レーダーに捉えられたシュペルエタンダール攻撃機は全速で艦隊に接近するとレーダーでロックオンしてミサイルを発射後、2機とも退避。ミサイルに続く形で4機のスカイホーク攻撃機が突撃をかけた。
このとき攻撃対象とされたのは実際には空母「ハーミーズ」と「インヴィンシブル」ではなく、艦砲射撃と特殊部隊上陸のために主力艦隊から離れて航行していた42型駆逐艦「エグゼター」と21型フリゲート「アヴェンジャー」だった。両艦は攻撃隊のレーダー探知後、チャフロケットを即座に発射し、対空砲火による防空を行った。飛来したエグゾセはこの際に空中で撃破された。イギリス側はエグゾセの撃破を「アヴェンジャー」の114mm単装砲による撃墜と主張しているがチャフによる誤作動だった可能性もあるなど詳細は不明である。さらに「エグゼター」は突撃してくるスカイホーク部隊に対してシーダート対空ミサイルによる迎撃を行い、2機を撃墜した。残った2機のスカイホークは両艦を爆弾で攻撃したが命中させることは出� �なかった。
結局、この攻撃による英国側の損害はなかったが、攻撃に参加したアルゼンチン側パイロットは空母にミサイルを命中させたと主張し(チャフロケットなどの発射煙を誤認したと見られている)、シュペルエタンダール攻撃機には「インヴィンシブル」のキルマークが描かれた。アルゼンチン政府は新聞に煙を上げる空母の写真すら掲載して損害を与えたと主張したものの、明らかな合成写真であったため、イギリス政府から失笑を買ったという。
6月8日にイギリス海軍は徴用船「キャンベラ」や「クイーン・エリザベス2」によって輸送されてきた増援兵力を強襲揚陸艦「フィアレス」を中核とした揚陸艦隊に移乗させ、フィッツロイにて揚陸作戦を行っていた。この動きをアルゼンチン軍はポート・スタンレーのレーダーで察知し、空軍機による攻撃をかけた。海岸の形状から陸上部隊の上陸に手間取っていた揚陸艦「サー・ガラハド」はスカイホーク3機の爆撃を受け、艦内にいた兵員46名が戦死するなど大きな人的損害を出して沈没した。同じく「サー・トリストラム」もスカイホーク2機の爆撃で大破し、その直後に海上を航行中だった「フィアレス」の揚陸艇F4号が爆撃で撃沈された。
また、アルゼンチン空軍のダガー攻撃機部隊の投下した500kg爆弾4発がフォークランド海峡にいたフリゲート「プリマス」を直撃した。しかしいずれも不発で「プリマス」は対潜爆雷が炎上し火災が発生したが沈没は免れた。なおこの際にアルゼンチン軍機3機がシーハリアーに撃墜され、イギリス軍機1機もエンジン故障により不時着大破した。
[編集] ポート・スタンレー陥落
イギリスは、アルゼンチン空海軍機による猛攻により多くの海軍艦艇を失ったものの、陸軍の侵攻は続けられた。
イギリス側はアルゼンチン軍守備隊に対して幾度となく降伏勧告を行うが、守備隊はそれを黙殺。6月12日にはポート・スタンレーに設置されていたトレーラー改造のミサイル発射台から輸送機で空輸していた艦対艦ミサイル・エグゾセMM38を発射し、駆逐艦「グラモーガン」の後部甲板に命中させ、不発ながら中破に追い込む。
6月13日よりイギリス軍はポート・スタンレーへの全面攻撃を開始。陸軍第2、第3空挺大隊は北側のロングドン山とワイヤレスリッジ方面を、スコットランド近衛大隊、イギリス海兵隊第45大隊、グルカライフル部隊は「姉妹の尾根」を越え、ダンブルダウン山を越えるルートを侵攻、ウェールズ近衛大隊はハリエット山方面から侵攻した。
イギリス側は野砲や海軍艦艇からの艦砲射撃、ハリアーによる空爆などで援護しつつ、新たに揚陸したスコーピオン軽戦車などを投入して進軍。対するアルゼンチン側は暗視装置を装着したライフルによる夜間戦闘やM2重機関銃による狙撃で対抗した。
この時点でアルゼンチン側は敗戦ムードが漂っていたため、全体の士気が大幅に下がっており、各所でイギリス軍は容易にアルゼンチン軍陣地を突破することに成功していたが、一部の場所ではコマンド部隊など士気、錬度の高いアルゼンチン兵が残っており、特にロングドン山やダンブルダウン山での戦闘は熾烈を極め、塹壕を挟んでの手榴弾の投げ合いや銃剣を用いた白兵戦すら発生する状況となった。
翌14日にイギリス軍は守備隊陣地を突破して首都ポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)へ肉薄。これを受けてアルゼンチン側は14日正午についに降伏。司令官マリオ・メネンデス准将は指揮下の9,800人の兵士と共に投降した。
この12日から14日までの戦いで200人近いアルゼンチン兵が戦死し、イギリス兵も多数の死傷者を出した。
[編集] 終結
プエルト・アルヘンティーノの陥落を受けて、翌15日にはガルチェリが「戦闘終結宣言」を出したが、すでに求心力を失っており2日後に失脚する。6月20日にはイギリス軍がサウス・サンドイッチ島を再占領し、イギリス政府は停戦宣言を出した。こうして72日にも及び、両国に多大な犠牲を出した戦争は終わった。
[編集] 推移(時系列)
1982年
キセノンはどこに見つかった?
- 3月19日:アルゼンチンの「解体業者」がアルゼンチン海軍輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」で入国手続き一切を無視して、サウス・ジョージア島に上陸。アルゼンチン国旗の掲揚などを行う。
- 3月22日:アルゼンチン海軍輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」、イギリス側からの抗議によりサウス・ジョージア島より撤収。イギリス、氷況巡視船「エンデュアランス」に海兵隊員と軍用ヘリを積載し同島海域へ派遣。
- 3月26日:アルゼンチン海軍砕氷艦「バイア・パライソ」がサウス・ジョージア島にアルゼンチン軍海兵隊と補給物資を輸送。
- 3月30日:アルゼンチン軍、「ベインティシンコ・デ・マジョ」を旗艦とする艦隊をフォークランド諸島海域に派遣。
- 4月2日:アルゼンチン軍がフォークランド諸島に上陸し、これを占領。イギリスのレックス・ハント総督以下イギリス軍を捕虜とする。イギリス、アルゼンチンに国交断絶通告。
- 4月3日:アルゼンチン軍、サウス・ジョージア島を占領。アルゼンチン海軍A69型コルベット「ゲリコ」が同島に接近時にイギリス軍守備隊の対戦車ロケット砲の攻撃を受け中破。
- 4月4日:アルゼンチン政府が全ての国内にあるイギリス資産を凍結。
- 4月5日:イギリス艦隊、ポーツマス港を出港。イギリスのエリザベス2世が民船徴用権付与。
- 4月10日:ECが対アルゼンチン経済封鎖を承認。西ドイツやフランスなどの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行う。
- 4月12日:イギリス軍、フォークランド諸島周辺の洋上封鎖発効。
- 4月18日:イギリス海軍の機動部隊がイギリス領アセンション島を出港。
- 4月20日:イギリス空軍、アセンション島より発進した第55飛行隊のヴィクターがサウス・ジョージア島を偵察。
- 駆逐艦「アントリム」を筆頭としたタスクフォース、同海域に先に派遣されていた氷況巡視船「エンデュアランス」と合流しサウス・ジョージア島に接近。
- 4月21日早朝:イギリス軍SAS の偵察隊がサウス・ジョージア島にヘリによる上陸を敢行するも悪天候で作戦行動がとれず、撤収。その際、輸送に使用されたイギリス海軍のウェセックス HU.5ヘリコプターが2機が悪天候により墜落。搭乗員は他のヘリにより救助される。
- 哨戒任務で出撃していたイギリス海軍第800飛行隊のシーハリアーと偵察任務で飛来したアルゼンチン空軍第1グループのボーイング707が会敵。海空封鎖発効前だったためハリアー側は発砲許可がおりず、写真撮影のみで両機撤収。
- 4月22日深夜:イギリス海兵隊特殊舟艇隊 (SBS)、サウス・ジョージア島にゴムボートによる偵察上陸を敢行するも一部が悪天候により上陸に失敗し、遭難。後にヘリにより救助。
- 4月25日早朝:イギリス海軍タスクフォース艦載のウェセックス HU.5らヘリコプター部隊がサウス・ジョージア島沖合でアルゼンチン海軍潜水艦「サンタフェ」を発見し攻撃。サンタフェは同日サウス・ジョージア島に擱座。乗組員は艦を放棄し上陸後、イギリス軍に降伏。
- 4月25日午後: イギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸。これを奪回。同島のアルゼンチン軍守備隊は全員降伏。
- 4月29日:アルゼンチン政府がアメリカによる調停案を拒否。
- 4月30日:イギリス、フォークランド諸島周辺の海空封鎖発効。
- 5月1日早朝:イギリス空軍、アセンション島より発進した第101飛行隊のバルカン爆撃機が長途飛来、諸島内のポート・スタンレーの飛行場への長距離爆撃を初実施し滑走路を破壊。
- 5月1日午前:イギリス海軍、空母「ハーミーズ」、「インヴィンシブル」艦載の第800,801飛行隊シーハリアー FRS.1が出撃。第800飛行隊のシーハリヤー12機がポート・スタンレーとグース・グリーンの飛行場を空爆。
- 5月1日午後:イギリス海軍、駆逐艦「グラモーガン」、フリゲート艦「アラクリティ」、「アロー」がポート・スタンレー飛行場周辺へ艦砲射撃を敢行。ペブル島のアルゼンチン海軍第4航空隊のビーチ T-34C-1 ターボメンター攻撃機3機が迎撃に出るも第801飛行隊所属のシーハリアー2機の迎撃により遁走。
- イギリス海軍、第801飛行隊のシーハリアー部隊とアルゼンチン空軍、第8グループのミラージュⅢ、第6グループのダガー攻撃機部隊が交戦。ミラージュⅢ、ダガーそれぞれ2機が撃墜される(うち1機はアルゼンチン軍守備隊の対空砲の誤射にて)。
- アルゼンチン空軍、第6グループのダガー攻撃機部隊3機がポート・スタンレーへ艦砲射撃を実施していた艦隊を爆弾と機関砲で攻撃。イギリス海軍、駆逐艦「グラモーガン」、フリゲート艦「アラクリティ」、「アロー」、それぞれ小規模の損害を受ける。
- イギリス海軍、第801飛行隊のシーハリアー部隊とアルゼンチン空軍、第8グループのミラージュⅢ、第6グループのダガー攻撃機部隊が交戦。ミラージュⅢ、ダガーそれぞれ2機が撃墜される(うち1機はアルゼンチン軍守備隊の対空砲の誤射にて)。
- 5月1日夜:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機6機がイギリス海軍艦隊へ空爆をかけようと接近するもイギリス海軍、第801飛行隊所属のシーハリアー2機の迎撃を受け、2機が撃墜、残った機は攻撃を断念し撤収。
- アルゼンチン海軍、209型潜水艦「サン・ルイス」、フォークランド諸島北部海域に接近していたイギリス海軍艦隊のフリゲート艦「ブリリアント」、「ヤーマス」に雷撃を行うも失敗。
- 5月2日午後:フォークランド諸島南部近海にてイギリス海軍、原潜「コンカラー」がアルゼンチン海軍巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」を魚雷攻撃により撃沈。
- 5月2日深夜:フォークランド諸島北部近海にてイギリス海軍のシーキングヘリコプターがポート・スタンレーよりパイロット捜索に派遣されていたアルゼンチン海軍の哨戒艇「コモドーレ・ソメレーラ」、「アルフェレツ・ソブラル」の二隻と会敵。直後に要撃に出たイギリス海軍のリンクスが二隻をシースクア対艦ミサイルで攻撃。「コモドロ・ソメレーナ」は撃沈。「アルフェレツ・ソブラル」は大破、アルゼンチン本国へ自力で帰還。
- 5月3日深夜:イギリス空軍、アセンション島より発進した第55飛行隊のバルカン爆撃機が長途飛来、諸島内のポート・スタンレーの飛行場への長距離爆撃を再度実施するも飛行場への損害は与えられず。
- 5月4日:アルゼンチン海軍、第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機が空対艦ミサイル・エグゾセAM39の2発でイギリス海軍42型駆逐艦「シェフィールド」を攻撃、1発が命中。同艦は炎上し総員退艦、12型フリゲート「ヤーマス」に曳航されるも5月10日に沈没。
- 対地攻撃を行っていたイギリス海軍の第800飛行隊所属のシーハリヤー1機がアルゼンチン軍守備隊の対空機関砲により撃墜。
- 5月5日:アルゼンチン政府がペレス・デ・クエヤル国連事務総長による調停案を受諾。
- アルゼンチン海軍、「ベインティシンコ・デ・マジョ」艦載のトラッカー哨戒機が潜航中の潜水艦らしき艦影(正体不明)を捉える。デ・マジョの対潜ヘリ部隊が対潜行動を取るも捕捉できず。以後「ベインティシンコ・デ・マジョ」はアルゼンチン、バイア・ブランカに帰港し紛争終結まで出撃せず。
- 5月6日:イギリス海軍、「インヴィンシブル」艦載の第801飛行隊所属のシーハリヤー2機が哨戒任務中に行方不明に(空中衝突による損失と見られているが詳細不明)。
- 5月9日:イギリス海軍、第800飛行隊所属のシーハリヤーが情報収集船として派遣されていたアルゼンチン籍の大型トロール漁船「ナルワル号」を攻撃。同船はイギリス海軍に拿捕されるも曳航中に沈没。乗組員は全員捕虜に。
- アルゼンチン空軍、第4グループのA-4スカイホーク攻撃機2機が天候不良で墜落。
- イギリス海軍、駆逐艦「コヴェントリー」がポート・スタンレー近郊を飛行していたアルゼンチン陸軍のピューマヘリコプターをシーダードミサイルで撃墜。
- 5月10日:イギリス海軍、フリゲート艦「アラクリティ」がフォークランド海峡にてアルゼンチン海軍の補給艦「イスラ・デ・ロス・エスタドス」を砲撃で撃沈。
- 5月12日:アルゼンチン空軍、第5グループのA-4スカイホーク攻撃機部隊がイギリス海軍艦隊へ攻撃。42型駆逐艦「グラスゴー」に爆弾が命中するも不発。A-4スカイホーク4機が撃墜。
- 5月14日:イギリスSAS D中隊45名がペプル島にシーキングヘリコプター2機で上陸し同島の飛行場を襲撃。飛行場に駐機してあったアルゼンチン機のすべてを爆破工作により破壊し滑走路を使用不能に。この攻撃でアルゼンチン側は海軍第4航空隊所属のプカラ攻撃機6機、ターボメンター軽攻撃機4機、沿岸警備隊のスカイバン輸送機1機を損失。
- 5月15日:イギリス空軍のニムロッド偵察機がアセンション島よりフォークランド諸島上空に飛来。アルゼンチン海軍の動向を偵察。
- 5月16日:フォークランド諸島近海に侵入したアルゼンチン海軍輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」、「リオ・カルカナーラ」。イギリス海軍第800飛行隊所属のシーハリヤーに発見され攻撃を受ける。両艦の乗員は共に艦を放棄して脱出。
- 5月17日:イギリス海軍徴用コンテナ船「アトランティック・コンベイヤー」を含む補給艦隊が補給物資を機動艦隊に運搬。イギリス空軍、第1飛行隊所属のハリアー GR.3の6機が空母「ハーミーズ」に合流。イギリス海軍第800,801飛行隊、補給のシーハリアーを4機づつ受領。
- 5月19日:イギリスSASのチームを運搬中だった シーキングが海鳥との接触事故で墜落。乗員22名が死亡。
- 空母「ハーミーズ」より発艦した シーキングがチリのプンタ・アレナスに着陸。乗組員は全員チリ当局に出頭後、後にイギリスに帰国(SASのアルゼンチンに対する極秘作戦だったなど諸説あるが詳細不明)
- 5月20日:アメリカ政府がKC-135空中給油機のイギリスへの貸与を決定。
- イギリス空軍、第1飛行隊所属のハリアー GR.3が西フォークランド島のアルゼンチン軍燃料集積所を空爆。
- 5月21日早朝:揚陸艦「フィアレス」を中核とした揚陸艦隊による上陸作戦開始。イギリス陸軍空挺連隊、海兵隊コマンド大隊が東フォークランド島、サン・カルロスより上陸を開始。
- イギリスSAS部隊40名が上陸部隊支援のためにグース・グリーンへヘリにより降下し、陽動作戦を開始。偵察飛行中だったアルゼンチン空軍第3グループのプカラ攻撃機1機をスティンガーミサイルで撃墜。
- イギリス空軍第1飛行隊のハリアー GR.3がケント山近郊に駐機していたアルゼンチン陸軍のヘリコプター部隊を攻撃。シヌーク1機、ピューマ2機を破壊。
- イギリス海軍、レイピアミサイルの空輸中だったシーキングヘリコプター1機と護衛のガゼルヘリコプター1機からなる編隊がアルゼンチン守備隊から銃撃を受け、ガゼルヘリコプター1機が撃墜。直後に飛来したガゼルヘリコプター1機も同じく銃撃を受け、撃墜される。
- イギリス空軍第1飛行隊のハリアー GR.3の1機がアルゼンチン陸軍の対空機関砲にて撃墜。パイロットの空軍大尉は脱出後、アルゼンチン軍の捕虜に(アルゼンチン本国に移送後、紛争終結後に無事帰国)。
- 5月21日午前:アルゼンチン海軍、第一航空隊所属のマッキ攻撃機がイギリス海軍フリゲート艦「アーゴノート」をロケット弾と機関砲で攻撃。「アーゴノート」は損傷軽微。
- アルゼンチン空軍、第6グループ所属ダガー攻撃機部隊が揚陸部隊を護衛する艦隊を攻撃。駆逐艦「アントリム」に爆弾が命中するも不発。ダガー数機が撃墜される。
- 5月21日正午:アルゼンチン空軍、第3グループのプカラ攻撃隊2機がイギリス陸軍橋頭保へ攻撃をかけるも艦隊の対空砲火と海軍第801飛行隊の攻撃で阻止。プカラ1機を撃墜。
- アルゼンチン空軍、第5グループ所属A-4スカイホーク攻撃機隊の一部がアルゼンチン海軍が放棄していた輸送艦「リオ・カルカナーラ」を誤爆。イギリス海軍21型フリゲート「アーデント」を空爆するも失敗。フリゲート艦「アーゴノート」に爆弾二発が命中(二発とも不発)、中破。
- 5月21日午後:アルゼンチン空軍、第6グループ所属ダガー攻撃機部隊が「アーデント」を攻撃し、爆弾2発を命中。「アーデント」は対空ミサイル発射機、主砲が損傷し使用不能に。直後にアルゼンチン空軍5グループとアルゼンチン海軍第3航空隊所属A-4スカイホーク攻撃機隊がさらに「アーデント」を反復攻撃。「アーデント」は爆弾計3発が艦尾で炸裂し大破。総員退艦の6時間後に沈没。
- 5月22日: フォークランド諸島、チョイゼウル海峡を飛行中のイギリス海軍第801飛行隊のシーハリアー2機が補給物資輸送中だったアルゼンチン沿岸警備隊のパトロール艇「リオ・イグアス」を発見し機関砲で攻撃。「リオ・イグアス」は大破、炎上し放棄。
- イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の4機がグース・グリーンのアルゼンチン軍陣地を空爆。
- アルゼンチン空軍、第1グループのボーイング707がフォークランド諸島北のイギリス海軍艦隊を偵察。駆逐艦「ブリストル」と「カーディフ」からシーダート対空ミサイルによる迎撃を受けるが回避、撤収。
- 5月23日:フォークランド海峡上空を哨戒中だったイギリス海軍、第801飛行隊所属のシーハリヤーがシャグ・コーブ入江近くを低空飛行中のアルゼンチン軍ヘリ部隊4機(ピューマヘリ3機、アグスタ A109ヘリ1機で構成)を発見。接近時にピューマ1機が墜落。残りの3機は強行着陸を行い、搭乗員は逃走。残った3機はすべてシーハリアーの機関砲により撃破。
- 5月23日午後:アルゼンチン空軍、第5グループとアルゼンチン海軍第3飛行隊所属のA-4攻撃機がイギリス海軍艦隊を攻撃。イギリス海軍、21型フリゲート「アンテロープ」(HMS Antelope) が爆弾2発を被弾。2発とも不発弾で炸裂せず。A-4数機が艦隊の対空砲火と陸上からの対空ミサイルの迎撃で撃墜。
- イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の3機がペブル島のアルゼンチン軍残存勢力に攻撃。
- アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機がフォークランド諸島東側に展開するイギリス艦隊へ対艦ミサイル空対艦ミサイル・エグゾセAM39による空襲をかけようとするも標的を捉えられず、帰還。
- 5月23日深夜:イギリス海軍、21型フリゲート「アンテロープ」、船体に埋まった不発弾の信管除去作業中に爆発し、大破、沈没。
- イギリス海軍第800飛行隊のシーハリアー4機がポート・スタンレー飛行場周辺のアルゼンチン軍陣地を空爆のために空母「ハーミーズ」から出撃。その際、シーハリアー1機が海上に墜落し喪失。
- 5月24日早朝: イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機とイギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の4機がポート・スタンレー飛行場のアルゼンチン軍陣地を空爆。
- アルゼンチン空軍、第4、第5、第6グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機とダガー攻撃機の編隊がイギリス海軍艦隊を空襲。イギリス海軍揚陸艦「サー・ランスロット」、「サー・ガラハド」に爆弾が1発づつ命中(不発)。「サー・ベディベア」が小規模な損害を受ける。ダガー、スカイホーク数機が対空砲火で撃墜。
- イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機とアルゼンチン空軍、第6グループダガー攻撃機4機が交戦。ダガー2機が撃墜される。
- 5月24日夜:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機編隊が東フォークランド島のサン・カルロス近郊に展開するイギリス陸軍に対して空爆。損害は与えられず。
- 5月25日早朝:アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機がサン・カルロスを高高度偵察。入江に展開する艦隊の位置を把握。
- 5月25日午前:アルゼンチン空軍、第4、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機編隊がサン・カルロス入江近辺に展開するイギリス海軍の揚陸艦隊を攻撃。激しい迎撃で損害は与えられず、数機が対空砲火で撃墜。内、パイロットのアルゼンチン空軍中尉が脱出後、イギリス海軍揚陸艦「フィアレス」に収容され、捕虜に。
- 5月25日午後:アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機編隊がペブル島沿岸に展開していたイギリス海軍艦隊を発見し、攻撃。イギリス海軍、駆逐艦「コヴェントリー」、爆弾3発が命中、炸裂し撃沈。フリゲート艦「ブロードソード」、不発の爆弾1発が海面を反跳し飛行甲板を下方向から斜めに貫通。艦載ヘリコプターのリンクスを破壊。
- アルゼンチン海軍、第2航空隊、シュペルエタンダール攻撃機2機がフォークランド諸島北東海域に展開中の艦隊を空襲。空対艦ミサイル・エグゾセAM39の2発を発射。イギリス海軍徴用コンテナ船「アトランティック・コンベイヤー」に1発が命中し大破炎上。積載していたチヌーク、ウェセックス、リンクスなどのヘリコプター計10機とトラック等の車両十数台、爆弾や航空機部品など大量の補給物資が失われる。「アトランティック・コンベイヤー」は曳航されるも30日に沈没。
- ガルチェリ大統領はそれまで反共の理念で敵対していたキューバのフィデル・カストロ首相に、キューバがアルゼンチンの立場を支持したことに対して感謝の書簡を送る。
- 5月26日早朝:サン・カルロスに上陸していたイギリス陸軍がフォークランド諸島各所に進出を開始。陸軍空挺連隊第2、第3大隊はそれぞれグースグリーン方面と西のティール入江方面へ、海兵隊第42コマンド大隊はポート・スタンレー方面に進撃。
- 5月27日午前:アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機が陸上に展開するイギリス軍を偵察。
- イギリス陸軍、第2空挺大隊の航空支援を行っていたイギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の1機がアルゼンチン陸軍の対空機関砲により撃墜。パイロットは脱出後、数日民家に身を潜めた後、イギリス軍ヘリコプターにより救助。
- 5月27日午後:アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機2機がサン・カルロス近郊のエイジャックス・ベイに展開していたイギリス陸軍の資材集積所、および戦時病院として利用していた冷凍食品工場周辺を空爆。損害を与える。スカイホークの1機が迎撃により撃墜。パイロットは脱出後、民家で食糧を調達しながら徒歩で移動。数日後にアルゼンチン軍に救助。
- 5月28日:アルゼンチン空軍、第3グループのプカラ攻撃機部隊がグースグリーンに進撃中のイギリス陸軍空挺部隊へ通常爆弾やナパーム弾による反復攻撃を行い、途中イギリス陸軍のスカウトヘリを機銃で撃墜。イギリス軍空隊部隊のブローパイプ対空ミサイルや機関銃、小銃の対空砲火でプカラ攻撃機数機が喪失。
- アルゼンチン海軍、第一航空隊所属のマッキ攻撃機1機がポート・スタンレーより出撃し、グースグリーンに進撃中のイギリス陸軍空挺部隊への阻止攻撃を行うもイギリス軍空隊部隊のブローパイプ対空ミサイルで撃墜される。
- 5月29日早朝:グース・グリーンのアルゼンチン陸軍守備隊が降伏。イギリス陸軍空挺連隊第2大隊がポート・ダーウィンとグース・グリーンを占領。
- 5月29日: イギリス海軍、空母「インヴィンシブル」艦上にて発艦準備中だった第801飛行隊のシーハリアーが甲板から落下し喪失。パイロットは脱出。
- フォークランド諸島北部で補給物資輸送中のイギリス海軍徴用の貨物船「ブリティッシュ・ウェイ」がアルゼンチン空軍第1グループ所属のC-130改造爆撃機から空爆を受ける。爆弾8発中1発が命中するも不発で船体で弾き飛ばされ、損傷軽微。
- 5月30日:アルゼンチン陸軍記念日の演説に際し、ガルチェリが「必要なら世界の他の地域(東側諸国を意味)からの支援を要請する」旨を言明。
- 5月30日午後:イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の1機が攻撃から帰還中に戦闘による被弾による損傷が元で墜落。パイロットは救助される。
- アルゼンチン海軍、第2航空隊所属のシュペルエタンダール攻撃機2機とA-4スカイホーク攻撃機4機がフォークランド諸島北東海域に展開しているイギリス海軍旗艦「ハーミーズ」の艦隊を空襲。空対艦ミサイル・エグゾセAM39の1発を発射するも命中せず(イギリス側はフリゲート艦「アヴェンジャー」の艦砲による撃墜を主張しているが詳細不明)。駆逐艦エグゼターのシーダート対空ミサイルによる迎撃でスカイホーク攻撃機2機が撃墜。
- イギリス海兵隊第42コマンド大隊K中隊がケント山を占拠。
- 5月30日深夜:ケント山に展開していたイギリス陸軍SASチームとケント山奪還のために派遣されたアルゼンチン陸軍のコマンド中隊がケント山北東部で衝突。翌日早朝にアルゼンチン軍コマンド部隊奪還を諦め撤収。
- 5月31日:イギリス空軍、アセンション島より発進したバルカン爆撃機が長途飛来。ポート・スタンレーのアルゼンチン軍射撃統制レーダー施設へシュライク対レーダーミサイルにて攻撃。損害はほとんど与えられず。
- 6月1日早朝:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機4機がイギリス軍のサン・カルロス陣地へ攻撃をかけるもイギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアーの迎撃を受けて攻撃を断念し、撤収。
- アルゼンチン空軍、第1グループ所属のC-130輸送機1機がポート・スタンレーへの輸送任務を終えて帰還中に独断でサン・カルロス周辺をレーダーで偵察。イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機が迎撃。C-130は対空ミサイルと機関砲により撃墜される。
- イギリス空軍、ハリアー GR.
- サン・カルロスにイギリス軍の工兵隊が建築したハリアー用の臨時飛行場が完成。
- イギリス陸軍、空挺部隊2個中隊がフィッツロイ周辺の占拠のため、フィッツロイ8km西にシヌークヘリコプターで降下。
- イギリス海軍、揚陸艦「フィアレス」、「イントレピッド」を中核とした揚陸艦隊がフィッツロイ上陸のために同海域に進出を開始。
- イギリス陸軍フィッツロイ上陸を開始。アルゼンチン陸軍、イギリス軍のフィッツロイ上陸を察知し、空軍による攻撃を伝達。
- アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機5機がフィッツロイに展開するイギリス海軍揚陸艦隊を攻撃。イギリス海軍補給揚陸艦「サー・ガラハド」、爆弾が直撃し大破炎上、撃沈。補給揚陸艦「サー・トリストラム」、爆弾が直撃し大破。両艦合わせてイギリス軍兵士51名が戦死、46名が負傷。
- アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機4機がグースグリーンからフィッツロイに兵士を輸送していたイギリス海軍の揚陸艦「フィアレス」のF4号揚陸艇を攻撃、爆弾を直撃させ撃沈。6名のイギリス兵が死亡。イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアーが迎撃し、3機のスカイホークが撃墜される。
- アルゼンチン空軍、第1グループ所属のC-130改造爆撃機がアメリカ籍のチャーター船であるタンカー「ハーキュリーズ」を爆撃。爆弾1発が命中するも不発。
- イギリス空軍、ハリアー GR.3の2機が増援としてアセンション島より空中給油で長距離飛行を敢行し空母「ハーミーズ」に飛来。第1飛行隊に合流。
- イギリス陸軍、ポート・スタンレー周辺をほぼ包囲。
- イギリス陸軍、イギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3と連携しレーザー誘導爆弾によるアルゼンチン軍陣地の空爆を実施。
- イギリス陸軍と海兵隊、ポート・スタンレーへ北部、中央部、南部の三方からの全面攻撃を開始。ポート・スタンレー周辺各所にてアルゼンチン陸軍守備隊と激しく交戦。
[編集] アルゼンチン
アルゼンチンでは、ガルチェリが建国以来はじめての敗戦の責任を問われて大統領及び陸軍総司令官を辞任し、失脚した。退役陸軍中将のレイナルド・ビニョーネが大統領に就任したが、戦争初期は軍とペロニスタも挙国一致の下に和解し、「海賊英国」、「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党(旧急進党人民派の流れを汲む)のラウル・アルフォンシンに政権交代が行われて民政移管が完了した。ガルチェリは「銃殺刑に値する」と言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に1990年に軍と取り引きした大統領カルロス・メネムの特別恩赦によって釈放された。
アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害したマリオ・メネンデスは「敬虔なカトリック教徒なので自殺は出来ない」と述べ、多くの少年兵が死んだのとは対照的に責任を逃れた。なお、降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士はウルグアイ経由でアルゼンチンに送還された。
この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、この回復は文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀の初めから続いていたチリやブラジルとの軍事対立も急速に収まっていった。一方で敗北した軍は政治力を弱めて大幅に削減され、開戦前には三軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は2000年には三軍で7万1000人程になっている。
[編集] イギリス
多くの艦艇を失い、多数の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前不人気をかこっていたサッチャーの人気が急上昇した。それまで不人気だったサッチャーは続投し、戦勝によって勢い付いた新自由主義的な改革はイギリス経済を復活させた。
また、それまで「二等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラストラクチャーは発展した。紛争前には少数の部隊しか駐留していなかったが、紛争後には最小限の防空部隊を配備しなければならず、F-4M装備の第23飛行隊を派遣した穴埋めの為、アメリカ空軍で余剰になったF-4Jの中古機を購入している(後にトーネードF.3に交代)。
[編集] 戦後の両国関係
その後しばらく、両国の国交断絶状態が続いた。そんな中、1986年6月22日に行われたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝で、サッカーアルゼンチン代表がディエゴ・マラドーナらの活躍によりサッカーイングランド代表に2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた。
1989年10月に、アルゼンチンとイギリスは開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年2月5日、両国は外交関係を正式に回復した。しかし、現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。
[編集] 評価と戦訓
[編集] 海戦
[編集] アルゼンチン軍
開戦当初、アルゼンチン海軍は空母、駆逐艦、揚陸艦、潜水艦など、主力艦艇を活用して揚陸作戦を展開し、フォークランド諸島を掌握することに成功したものの、イギリスの海上封鎖発効後、到着したイギリス海軍の機動艦隊に対する空母、巡洋艦、フリゲートによる波状攻撃の計画は空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」の不調による作戦の破綻と巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」の撃沈により頓挫。
主力艦艇が大陸棚にくぎ付けになっている間もフォークランド諸島への海上輸送や撃墜されたパイロットの救助等で輸送艦や哨戒艇、沿岸警備隊のパトロール艇が活動を行っていたが、イギリス海軍のシーハリアーやヘリコプター、フリゲート艦の攻撃に晒され、最終的に3隻の輸送艦、2隻の哨戒艇、1隻のパトロール艇が攻撃により失われた。
このように水上艦艇はイギリス海軍に対して大きな活躍はできなかったものの、アルゼンチン海軍の潜水艦の活動は複数挙げられる[8]。「サンタフェ」(A.R.A. Santa Fe)は4月2日にコマンド上陸支援を行い成功裏に帰還したが、4月25日にサウスジョージア島付近を水上航行中にイギリス海軍ヘリコプターに発見されロケット弾攻撃などで損傷、座礁し、乗組員は上陸後降伏した。
ドイツ製209型潜水艦である「サンルイス」(A.R.A. San Luis)はフォークランド諸島北方海域で哨戒活動を行い、何回かの魚雷による攻撃を行ったとされる。このうち5月1日には「ブリリアント」、「ヤーマス」を魚雷攻撃したが命中せず、逆に20時間にわたって追跡と攻撃を受けたが無事逃げることに成功した。5月8日には潜水艦目標に、5月10日には「アロー」、「アラクリティ」に対して魚雷攻撃を行ったが失敗した。これらの失敗は、魚雷の調整失敗などによるとされる。最終的に「サンルイス」は終戦まで海域にとどまり、イギリス海軍は「サンルイス」の存在に多くの注意を払い続け、その行動を大きく制限されることになった。
最終的に艦艇に膨大な損害を受けたイギリス海軍と対照的に、アルゼンチン海軍の大型水上艦損失は、巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」がイギリスのチャーチル級原子力潜水艦「コンカラー」に魚雷で撃沈された(これは原子力潜水艦が史上初めて実戦で戦果をあげたものとなった)だけで、他には小型の哨戒艇や輸送艦などが撃沈破されたのみであった。
[編集] イギリス軍
[編集] 膨大な損失
イギリス海軍はアルゼンチン軍の航空機によるエグゾセ・ミサイルと通常爆弾による度重なる攻撃で多くの艦艇を撃沈され、これらの攻撃に対する決定的な対策を打てないままに損失を重ねることとなった。さらにアルゼンチン軍のスカイホーク、ダガー部隊による低空艦船攻撃を受けた際には、早期警戒機がないことにより防空システムが十分に機能せず、21型フリゲイト「アンテロープ」と「アーデント」、揚陸艦「サー・ガラハド」などを撃沈され、多数の艦船に損害をうけた。
この戦争の勝敗に大きな影響を与えた5月21日の揚陸作戦においては、多数の護衛艦船の被害は生じたものの、アルゼンチン軍側の戦略ミスにより揚陸部隊にはほとんど損害を出さないまま揚陸作戦を成功させており、膨大な損害を出したものの作戦目的は十分に果たしたと言える。しかし、これらのアルゼンチン軍による果敢な攻撃に翻弄されたイギリス海軍は、敗北したアルゼンチン海軍の大型艦艇の損失がイギリスのチャーチル級原子力潜水艦「コンカラー」に魚雷で撃沈された「ヘネラル・ベルグラーノ」1隻だけに終わったにもかかわらず、それとは対照的に駆逐艦2隻、フリゲート2隻、揚陸艦1隻、運搬空母として使用されていたコンテナ船1隻の計6隻を失った。
[編集] 損失の原因
イギリス海軍は、本土より空母(「ハーミーズ」と「インヴィンシブル」)を派遣したが、アルゼンチン軍の航空機や潜水艦の攻撃による損害を恐れ、フォークランド諸島の東のかなり離れた海域にとどまらざるを得なかった。
揚陸艦隊の護衛や艦砲射撃にフォークランド諸島に接近することとなった駆逐艦、フリゲート艦には対空ミサイルなどの誘導兵器は装備されていたが、旧式で対応力が低いシースラグ・ミサイルや手動で誘導を行うシーキャット・ミサイルは命中率が低く、高高度に対しては非常に有効なシーダート・ミサイルは超低空で接近するアルゼンチン軍機に対しては有効な対抗策とはならなかった。
当時新型であった近接防空兵器のシーウルフ・ミサイルを装備している艦は22型フリゲート「ブロードソード」、「ブリリアント」のたった2隻であり、絶対数が不足していた。
このような状況下でイギリス海軍各艦は、デッキの手すりなどに軽機関銃を装着できるように現地で改造を行うなどして急場の対空火器の増強を行うこととなった。
防空も担当したシーハリアーは、開戦時はわずか20機と絶対数が不足していたうえ、もともとSTOVL機であり滞空時間も短く、さらにフォークランド諸島から空母が離れていたために戦域でのCAP時間も短くなる不利を抱えていた。
特に5月21日から25日、6月8日のアルゼンチン軍の攻撃機による通常爆弾による攻撃では、西側に島影があり、また十分な回避行動がとれない海峡内あるいは湾内にいたこともあって、損害を大きくした。
なお、当時のイギリス艦艇の艦橋の構造物はアルミニウム合金製が主流であり、炎上し易いという弱点を露呈したと当時報道された。しかし、エグゾセにより沈没した42型駆逐艦「シェフィールド」はアルミ上構ではなく、アルミニウム製上構だった21型フリゲートで沈没した「アーデント」、「アンテロープ」とも船体への爆撃浸水被害および不発弾処理失敗が沈没原因であり、アルミニウム製上構の脆弱性が大きな原因で沈没した艦船はない。「シェフィールド」に命中したエグゾセは不発だったが、残っていた燃料による火災が塗料および電線被覆に延焼し、被害を拡大、消火作業を阻害したとされる。
[編集] 航空戦
[編集] アルゼンチン軍
イギリス軍が空母により航空機の増派を行ったうえ、ダガーは空中戦においては最新式の電子装備を持ち機動性に優れたハリアーに対抗できず、シュペルエタンダールに搭載するエグゾセ空対艦ミサイルは5発しかなかったなど、その質は最新鋭機を揃えたイギリス軍に劣っていた。
またアルゼンチン空軍にとって、主戦場となったフォークランド諸島とアルゼンチン本土の距離が低空飛行での作戦行動半径の限界に近いことが大きな制約となった。 当時も緊張状態にあった隣国のチリなどに対する本土防衛を主な任務としていたこともあり、アルゼンチン軍には空中給油機が2機しかなかった。アルゼンチン海軍が保有する空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」は機関部の不調から搭載機の発艦ができず、さらに潜水艦の攻撃による損害を恐れて母港に帰還してしまい、フォークランド諸島の空港は長距離の滑走路が必要なミラージュなど戦闘機の利用には向いていなかったため、配備はプカラなどの軽攻撃機に限定されてしまっていた。
そのためアルゼンチン側の航空攻撃は少数機による五月雨式の攻撃となりイギリス側が恐れたような多数機による同時攻撃は行われなかった。しかもダガーやミラージュはそもそも空中給油受油装置を持っていない上、フォークランド諸島上空で積極的な空中戦闘を行うには航続距離が十分でなく、増槽を装着してもフォークランド諸島上空に留まれるのはわずか十数分程度だった。 さらにこの戦争の直前に国境付近で緊張状態にあり、イギリスとの戦争のどさくさにまぎれて攻撃してくる懸念があった隣国のチリの動向に対する懸念により、ある程度の兵力を本土防衛に控置しておく必要があった。また、イギリス海軍艦船に対する攻撃においては、探知を避ける為に超低空で艦隊に接近することを繰り返したが、超低空飛行により更に燃費を悪化させてしまい、運用面からも戦闘行動半径を短くしてしまうことになった。
他にも艦船攻撃に用いたエグゾセ対艦ミサイルや500ポンド爆弾の不発率が異常に高かったが、これはエグゾセを当時導入したてであったアルゼンチン海軍では、フランス側の技術者による説明が十分でない段階での使用を強いられており(マニュアルがすべてフランス語だったため、パイロットと整備員らの負担は激増した。シュペルエタンダール攻撃機のサポート要員として派遣されていたダッソー社の技術者の協力によって搭載、運用することができたという)、爆弾の方は対地用の調整のままで使用したものが多かったため、対空砲火を潜り抜けようと超低空で投下したことにより、安全装置が外れなかったことが主な原因であった。
アルゼンチン本土から爆撃任務を受けたキャンベラ爆撃機や、フォークランド諸島に配備されていたプカラ攻撃機やターボメンター軽攻撃機は、ミラージュやダガーと比べて機動性が遥かに低く、イギリス海軍艦艇のシーダードミサイルやシーハリアーの要撃、陸軍のブローパイプ対空ミサイルによって撃墜されるか、爆撃前に遁走を強いられるケースがほとんどであり、有効な打撃を与えられなかった。
このようにアルゼンチン軍の航空戦力は十分な準備ができないままで開戦に踏み切ったことが明らかになっており、それによる装備と兵站能力の低さを示すものだった。
このような装備や運用面でのマイナス要素があったものの、アルゼンチン空海軍は航空機による攻撃で多くのイギリス海軍艦艇を撃沈した。特に5発のフランス製の空対艦ミサイル・エグゾセをシュペルエタンダール攻撃機から発射し、2発を命中させたことにより、イギリスの42型駆逐艦「シェフィールド」と臨時空母として使用されていた徴用コンテナ船「アトランティック・コンベイヤー」を沈没させた。
さらにアルゼンチン軍のスカイホーク、ダガー部隊は、対空砲火と早期発見を避ける為に低空飛行で爆弾を投下し、前述のように信管調整の失敗から不発弾もきわめて多かったにもかかわらず、21型フリゲート「アンテロープ」と「アーデント」、揚陸艦「サー・ガラハド」などを撃沈し、多数の艦船に損害を与えた。
空軍第1グループのC-130などの輸送機部隊は視界の悪い夜間や悪天候時に出撃し、低空飛行でイギリス側の防空網を掻い潜ってフォークランド諸島のアルゼンチン部隊への輸送を60回以上も成功させ、補給物資、野砲、対艦ミサイルの搬入や負傷者、捕虜の本国への輸送を行った。
このように個人個人の技量は非常に高かったアルゼンチン空海軍であったが、部隊として統制がとれた攻撃はできておらず、イギリス軍に多くの損害を与え、機動部隊の行動に一定の制約を与えたものの、イギリス海軍艦船の対空砲火やソフト面で優れたシーハリアーを相手に多くの被撃墜機も出し、攻撃も護衛艦船に集中し揚陸部隊への攻撃がほとんど行われなかったため、一番重要なイギリス軍による逆上陸の阻止には失敗した。
なお、戦後フランスは、アルゼンチン軍が使用したエグゾセやそれを搭載したシュペルエタンダールなどの自国製兵器の戦果を兵器の販売促進に大いに役立てた。また、ミラージュ5のイスラエル製無断コピー品であるダガーが、アルゼンチン軍によって中東戦争以外で初めて実戦投入された。
[編集] イギリス軍
一方、この戦争におけるイギリス空海軍機の主な運用目的は、艦船への攻撃が主な目的であるアルゼンチン軍と違い、アルゼンチン軍機からの自国艦船の防御と地上目標の破壊であった。しかし、電子装備では勝っているものの数の上では圧倒的に不利な状況でイギリス本国からの大遠征をしなければならなかった。
シーハリアーを搭載していた「ハーミーズ」と「インヴィンシブル」が攻撃を恐れて後方に展開したため、艦載機による即応態勢を整えることができず、このことも影響してアルゼンチン軍機による攻撃を阻止することができず、結果的にイギリス艦艇に膨大な被害を出すこととなった。
当初ハリアーは「ハーミーズ」に12機と「インヴィンシブル」に8機の合計20機しか搭載していなかったので、攻撃任務に使われると防空に回す機体がなかった。後に徴用したコンテナ船で8機が増派された。早期警戒機を展開出来なかったため、超低空で艦隊に接近するアルゼンチン軍の攻撃機を見つけられず、滞空時間の短いシーハリアーでは有効な迎撃態勢が整わず、艦隊の外周に配置していたレーダーピケット艦が被害を受けることが多かった。なおイギリス空軍のハリアー GR.3は、増援部隊としてコンテナ船や空輸により運ばれたが、レーダーが無いため対地攻撃など近接航空支援に専念し、空対空戦闘は行っていない。
同じ西側の航空機と装備、兵器を使用してはいたが、イギリス軍の方がより最新のものを使用していた。アルゼンチン軍機の作戦行動半径が狭く本格的な空戦を行う余裕がなかったこと、そして空対空戦闘より対艦攻撃に専念していたことを考慮したとしても、ハリアーの23対0(イギリス軍発表)という一方的な撃墜スコアが示すとおり、近代戦においては、速度や旋廻性能といった機体そのものの性能より、電子装備がものをいうことを如実に現していた。特に空対空ミサイルの性能は歴然としており、旧式のミサイルのため後方に占位しなければロックオンが出来なかったアルゼンチン軍機に対し、イギリス軍機の使用したアメリカから購入した最新式のサイドワインダーAIM-9Lは限定的ながら正面からのロックオンが可能であった。< /p>
[編集] 地上戦
当初アルゼンチン軍はほぼ無傷でフォークランド諸島を制圧した上、イギリス海軍艦艇に膨大な損害を与えたにもかかわらず、パタゴニアなどに展開していたアルゼンチン陸軍の精鋭部隊が、当時国境紛争を繰り返していたチリとの戦争に備えて待機していたため、その後のイギリス陸軍やイギリス海兵隊の上陸に備えて陸上部隊を増強することができなかった。
フォークランド諸島に展開したアルゼンチン陸軍は新兵を主体としていた上、数の上でも勝っていたわけではなかった。しかしアルゼンチン兵士の創意工夫によって、イギリス軍は著しい損害を被った。とりわけ、サウス・ジョージア島での攻防では、イギリス海兵隊は敵陣にたどり着くまでに多くの犠牲者を出した。これは、本来は陣地戦での攻防や対車両用に用いられるブローニングM2重機関銃にスコープを載せ、遠距離から狙撃したもので、本格的な大口径対人狙撃の始まりとなった。
これに対しイギリス軍兵士の手持ちのL1A1ライフルなど、自動小銃や軽機関銃はまったく射程が足りず、対抗するためにミラン対戦車ミサイルをもって更なる遠距離から機関銃陣地への攻撃を行った。この戦訓は戦後秘匿されたが、一時は存在意義を失っていた対戦車ライフルが『対物ライフル』として見直される等、各国では、陣地攻撃用の携帯兵器の開発を促すきっかけとなった[9]。
[編集] 情報戦・戦時中の国際関係
[編集] ラテンアメリカ諸国の対応
ラテン・アメリカ諸国のほぼ全てがアルゼンチン支持を表明したが、各国は軍隊を送るわけでもなかった上、情報組織などによる具体的な支援があったわけでもないことから戦況にはほとんど影響しなかった。ただし、ペルーなどの南米諸国からは20世紀後半まで持ち越された帝国主義との戦いのためと称して少数ながら義勇兵が参戦を希望したようである。さらに実戦に出たかどうかは定かではないが、ペルー空軍のミラージュIII戦闘機10機程度が、アルゼンチン空軍に貸し出されている。このことは今まで白人国家であることを誇り、「南米のヨーロッパ」と自称してメスティーソが主体の他のラテン・アメリカ諸国を見下していたアルゼンチンにラテン・アメリカの一員としての意識を芽生えさせた。
[編集] チリの対応
しかし、アルゼンチンの隣国のチリだけは、アウグスト・ピノチェト政権以前からパタゴニアのビーグル海峡地域において隣国アルゼンチンと国境問題を抱え、戦争寸前の危機的状況が続いていたことから、自国内の基地を提供するなど積極的にイギリスに協力した。
さらに、チリが戦争のどさくさにまぎれて参戦してくることを恐れたアルゼンチンが、イギリスとの戦争中にもかかわらず対チリ戦に備えて多くの戦力を本土に温存せざるを得ない状況に追い込むなど、実質的にイギリスの同盟国として機能した。
[編集] NATO諸国の対応
イギリスはNATOやECの一員として他の加盟国へ協力を依頼し、これを受けて白人国家アルゼンチンの多くの市民の先祖が住むイタリアや西ドイツ、スペインなどのEC加盟国はアルゼンチンへの経済制裁を発動した。
アルゼンチン人の精神的な故郷であるヨーロッパのこの行為にアルゼンチン人は大きな衝撃を受け、深刻なアイデンティティ喪失の危機に陥った。しかし、この措置が上記のように新たなアイデンティティとしてのラテン・アメリカの一員としての自覚を芽生えさせた。
[編集] アメリカの対応
アメリカ合衆国は全面的に、NATO加盟国で長年の同盟国であるイギリスを支援し、空中給油機の貸与を申し出た他、アルゼンチンが使用する自国製の戦闘機や各種武器の情報をイギリスへ提供した。それだけに留まらず自国衛星情報を提供し、戦時中のアルゼンチン軍の行動は全て筒抜けだったという[要出典]。また、アルゼンチンの電話・通信設備を敷設したのがイギリス系企業だったこともあり、アメリカの偵察衛星の情報と合わせるとアルゼンチンの軍や政府の情報はイギリスへ筒抜けであったと言われている[要出典]。
また、海路長旅を行うイギリス軍のためにアセンション島にイギリス軍を集め、兵員を休憩させるためにあらゆる便宜を図った。こうした行為は、友好国アメリカは米州共同防衛協定とOASを優先して、ヨーロッパの帝国主義の残滓よりはアメリカ大陸の一員として、米州に残る植民地を奪回しようとするアルゼンチンを立てるだろうと考えたアルゼンチン軍部に大きな衝撃を与えた[要出典]。
アメリカは冷戦下で中米紛争、特に第二次ニカラグア内戦において、アルゼンチン軍はアルゼンチン国内で「汚い戦争」を通して培った対ゲリラ戦の戦訓を、イスラエル国防軍などと共にホンジュラス軍やニカラグアのコントラなどへ訓練していた(アルゼンチン・コネクション)。このような、「アメリカが表立って行えなかったようなことをアルゼンチンが行う」という関係を通して両国は友好関係にあったが、一切の正式な同盟関係になかったアルゼンチンへの配慮は全くなかった。
[編集] 東側諸国の対応
これに対し、冷戦下、アメリカやイギリスと敵対していたソビエト連邦や東側諸国がイギリスを非難するという形でアルゼンチンを支持したが、国連安保理では棄権にとどめた。非同盟諸国 の多くがアルゼンチン支持を表明したが、各国は軍隊を送るわけでもなかった上、ソ連が衛星写真を提供したことを除いて、情報組織などによる具体的な支援があったわけでもないことから戦況にはほとんど影響しなかった。反共国家であるアルゼンチンを本気で支援する気があったかどうかも疑問であり、ソ連がアルゼンチン支持に及び腰になったのは、日本との間に北方領土問題を抱えていたのが原因のひとつと言われる(ちなみにアルゼンチンは、ソ連との間に北方領土問題を抱える日本は、アルゼンチンを支持するものと期待していた。詳細は下記にて)。
[編集] 日本の対応
日本はアメリカ、イギリス、ECの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置は最後まで実施しなかった。しかしながら全体としては、国連でのアルゼンチン撤退勧告には賛成票を投じるなど、アルゼンチン側を批判していた。アルゼンチンとしては日本の北方領土問題にあたるマルビナス問題では、日本が積極的に支持をしてくれるものと期待していたが、日本がそうしなかったことは大きな不満であった。
[編集] ロイターの対応
世界最大の通信社であるロイター社は、イギリスの軍事行動を詳細に世界へ発信した。両軍とも相手の出方をある程度承知していたため実害はなかった。
[編集] アルゼンチン軍の参加兵力
[編集] 参加艦艇
[編集] 航空機
- 戦闘機・攻撃機
- 爆撃機・輸送機など
- 回転翼機
- LADE (Lineas Aereas Del Estado、「国営航空」)の各機も空軍の下で輸送任務についた。
- フェニックス・エスカドロン(徴用ビジネス機部隊)は主に後方支援にあたったが、リアジェットのような高性能機は通信中継や偽装攻撃も行った。
- アルゼンチン航空等のエアラインも支援体制にあった。
- 長距離洋上哨戒飛行のため(イギリス海軍艦隊の偵察)、武装を施していないアルゼンチン航空のボーイング707旅客機による偵察飛行がたびたび実施されたが、それに対抗するために、イギリス空軍がニムロッド哨戒機にサイドワインダーミサイルを4発搭載して偵察行動をとった結果、ボーイング707による偵察飛行は中止された。
[編集] イギリス軍の参加兵力
[編集] 参加艦艇
- 第317任務部隊(指揮:ウッドワード少将) - 機動部隊
- 第324.3任務群(指揮:ハーバート少将) - 潜水艦隊
- 補給部隊(指揮:ダンロップ准将)
- 補給艦
- フォートグランジ、フォートオースチン、リゾース、ストロムネス、アップルリーフ、ベイリーフ、ブラウンリーフ、プラムリーフ、パールリーフ、ブルーローバー、リージェント、オルメダ、オルナ、タイドプール、タイドスプリング、エンガダイン
- 氷海巡視船
- 掃海艇
- ハント級掃海艇 ブレコン、レッドベリー
- 測量艦
- ヘクラ級測量艦 ヘクラ、ヘカテ、ヘラルド、ハイドラ
- 通報艦
- キャッスル級哨戒艇 リーズキャッスル、ダンバードンキャッスル
- その他支援艦艇若干
- クイーン・エリザベス2号、キャンベラ号、アトランティック・コンベアー(沈没)など徴用艦艇多数
[編集] 航空機
- ^ South Atlantic/Falkland Islands - British Army Website
- ^ 『サッチャー回顧録』 222項 ISBN 4-532-16116-9
- ^ 『サッチャー回顧録』 221項 ISBN 4-532-16116-9
- ^ "国連広報センター 国際憲章". 国連広報センター. 2008年10月27日閲覧。
- ^ 『サッチャー回顧録』245項 ISBN 4-532-16116-9
- ^ 『サッチャー回顧録』260-261項 ISBN 4-532-16116-9
- ^ a b サンデー・タイムズ特報部編、宮崎正雄訳『フォークランド戦争 - "鉄の女"の誤算 - 』 原書房、1983年 ISBN 4-562-01374-5
- ^ Submarine Operations during the Falklands War. Naval War College
- ^ 床井 雅美 『アンダーグラウンド・ウェポン―非公然兵器のすべて』、日本出版社、1993年、ISBN 4-890-48320-4
0 件のコメント:
コメントを投稿