フォークランド紛争(フォークランドふんそう、英語: Falklands Conflict/Crisis)とは、フォークランド諸島(スペイン語名/アルゼンチン名:マルビナス諸島。以下はフォークランド諸島で記載を統一)の領有を巡り、イギリスとアルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた紛争である。スペイン語やポルトガル語では「マルビナス戦争」(Guerra de las Malvinas)と表記されることが多い。
日本語の教材や辞典では「フォークランド紛争」と表記されることが多いが、世界的には「紛争」よりも「戦争」に該当する呼び名が用いられることが多い。ただし、イギリス陸軍のウェブサイトでは「Falklands Conflict」の語を用いている[1]。
フォークランド紛争は、近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは実戦を経験していなかったが、この紛争で定量的に評価されることになった。また、アルゼンチンはイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの西側第三国で設計開発された兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴があった。
アルゼンチン軍の攻撃によりイギリス軍は多数の艦船と乗組員を失い、戦争中のイギリス軍の艦艇の損失はアルゼンチン軍のそれを大きく上回ったが、揚陸作戦を成功させ、経験の豊富な地上軍による陸戦や長距離爆撃機による空爆、同盟国であるアメリカ軍の援助を得た情報戦を有利に進めた結果、最終的に勝利を収めた。
アルゼンチン軍は果敢な航空攻撃によりイギリス海軍艦艇に大きな損害を与えたが、イギリス軍の逆上陸を阻止できず、また一部で頑強な抵抗を示したものの経験豊富なイギリス地上部隊に対抗できず、降伏に至った。
「フォークランド諸島」も参照
「独裁王」フアン・マヌエル・デ・ロサス統領の時代に入ると、1829年にアルゼンチン政府に海域の通行料を払わなかったアメリカの捕鯨船三隻が拿捕されたのをきっかけに、ブエノスアイレスのアメリカ領事は「島の主権がイギリスにある」と訴えて、アンドリュー・ジャクソン大統領が派遣したアメリカ海兵隊が上陸し諸島の中立を宣言した。
1833年にはアメリカ軍に代わりイギリス軍が再占領し、領有権をめぐって再び対立した。アルゼンチン政府は島の返還を求めていたが、ウルグアイにおける大戦争のため、諸島を奪還することが出来なかった。
カセーロスの戦いによるロサス追放後、自由主義者の政権はイギリスと友好関係を持つ傍ら、イギリスを牛肉などの輸出市場としていたため領有権を持ち出すことをしないまま150年近い時間が経ち、紛争に至った。
既に1930年代のアルゼンチンにおけるロサス再評価と共にマルビナス奪還はアルゼンチン国粋主義者の悲願となっていたが、歴史が動き出したのは1981年に、双方で政権が交代したことに端を発する。
[編集] アルゼンチン情勢
アルゼンチンは最初直接交渉で、第二次世界大戦後は国際連合を通じた交渉で穏健策をとり、1960年代以降にはイギリスの維持能力を超えていたこの諸島に様々な行政、医療サービスを行いながら、イギリスに対してフォークランド諸島の返還を求め続けていた。これに対してイギリスも条件付ながら返還を認めるとしてきたが、1982年からアルゼンチンはあくまで無条件返還を求めたため交渉は平行線をたどり難航していた[2]。
アルゼンチンは1950年代までは畜産物と穀物輸出から得られる外貨と、その外貨を国民に分配した左翼民族主義者の大統領フアン・ペロンのポプリスモ政策によって先進国並みの生活水準を誇っていたものの、保守派と結託した軍のクーデターでペロンが追放されると、ペロン派(ペロニスタ)や、その流れを汲む都市ゲリラ(モントネーロスやペロニスタ武装軍団など)と軍部による20年以上にも及ぶ政治の混乱が天文学的なインフレと失業を招き、牛肉など食料品の値上げにより国民生活を深刻な状況に陥れていた。
1976年にイサベル・ペロンを追放して誕生したホルヘ・ラファエル・ビデラ軍事政権は、それまでよりも弾圧の姿勢を強めてペロニスタや左翼を徹底的に弾圧し、この「汚い戦争」で8,000人から30,000人が「行方不明」(実際は治安部隊に暗殺されたが、事件そのものが「存在しないこと」とされ、統計上行方不明になった)になったといわれる。このようにして行方不明になった人間には当然テロやゲリラや左翼と無関係の市民も大勢いた。そして経済状況が一向に改善しないにもかかわらず、こういった政争に明け暮れる政権に対して民衆の不満はいよいよ頂点に達しようとしていた。
軍事政権は、当初よりしばしばフォークランド諸島に対する軍事行動をちらつかせてはいたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。だが、かかる状況下で軍事政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリ(現役工兵中将でもあった)は、民衆の不満をそらすために必然的ともいえる選択肢を選んだ。既にアルゼンチンの活動家が上陸して主権を宣言するなどの事件も起きており、フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。
[編集] イギリス情勢
第二次世界大戦においてイギリスは国力を消耗し、長引く不況や硬直した政治、社会制度による深刻な財政難に悩まされていた。ほとんどの植民地や海外領土を手放さざるを得なかったこともあり、「陽の落ちることが無い」とまで言われたかつての大英帝国はこの頃には跡形も無く、イギリス本国は英国病から抜け出せずにイギリス連邦がその役割を引き継いでいた。
大戦後に手放さずに済んだ海外領土の一つであるフォークランド諸島は、イギリス本国への羊毛の輸出でどうにか成り立っており、フォークランド諸島民は二等市民として扱われて、本土との定期航空便もないなど本国からあまり面倒を見られずに、アルゼンチンからの医療などにおける様々な援助のおかげでどうにか維持されていたような状態だった。
このように島自体の経済的価値は相対的に低かったものの、フォークランド諸島は冷戦下において南大西洋における戦略的拠点として非常に重要な位置を占めていた。パナマ運河閉鎖に備えてホーン岬周りの航路を維持するのに補給基地として必要であった上、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としても価値がにわかに高まっていた。
保守党はエドワード・ヒースが政権を握っていた頃、1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、それ以上の実質的な進展はアルゼンチン側が主権問題を取り上げて拒んだ[3]。当時の国務大臣であるニック・ヒドリーによって提案された「引き続いてイギリスが統治するものの主権はアルゼンチンに移譲する」というリースバック案があったものの、すでにイギリス人入植者が多数を占めていたフォークランド諸島の住民の意向に沿ったものではなかったため下院で不採用が決議された。
こういった経緯を含め、国際連合憲章第1条第2項に則った人民の自決の原則を理由に、1979年にイギリス首相へ就任したマーガレット・サッチャーはあくまでフォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていた[4]。
[編集] 両国の衝突
その後1982年に、民衆の不満をそらすためにガルチェリ政権が問題をクローズアップさせたことで、アルゼンチンではフォークランド諸島問題が過熱ぎみになり、民衆の間では政府がやらないなら義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。
この様な動きに対して、アルゼンチン政府は形だけの沈静化へのコメントを出すものの、3月には海軍艦艇がフォークランド諸島の東約1000kmにある同じくイギリス領となっていたサウス・ジョージア島に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させるなどして武力行使への動きを見せ、イギリスのサッチャー首相はサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すとともに3月28日にアメリカの国務長官であるアレクサンダー・ヘイグに圧力をかけるよう依頼し、フォークランド諸島へ原子力潜水艦の派遣を決定した。
当初はガルチェリの思惑通り事は進み、大統領官邸前には大統領の決定を支持する民衆で埋め尽くされた。3月31日、アルゼンチンが正規軍を動かし始めたとの報せを受けて、4月1日にイギリス首相のサッチャーはアメリカ大統領のロナルド・レーガンに事態収拾への仲介を要請し、閣議を招集して機動部隊の編成が命じられた。しかし、翌2日にはアルゼンチンの陸軍約4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧したことで武力紛争化した。
4月2日に下院で機動部隊派遣の承諾を受け、5日には早くも航空母艦2隻を中核とする第一陣が出撃した。到着までの間、アメリカ国務長官や外相フランシス・ピムのシャトル外交により事態の打開が模索されていたが、イギリス側は同諸島の統治が島民の意思を尊重することであったのに対し、アルゼンチン側は同諸島での現地統治とその参政権をアルゼンチン島民にも与えることであった[5]。また、排他海域の設定やフォークランドへ向かっているイギリスの機動部隊を停止するなど撤退に関することも協定案としてやり取りがあったものの、24日にアルゼンチンの協定案ではイギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないようにした文章が含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的であることや外交を時間稼ぎに使われているのではないかという懸念を持った[6]。
25日にはフォークランド諸島に続いて占領されていたサウス・ジョージア島にイギリス軍の特殊部隊が逆上陸、同島におけるアルゼンチン陸軍の軍備が手薄だったこともあり即日奪還した。その後も国連で和平案の議論が行われたが、態度を硬化させたアルゼンチンにサッチャーは、「我々は武力解決の道を選択する」と決断した。
アルゼンチン軍は、巧みな航空攻撃により幾度となくイギリス海軍の艦船を撃沈するなど、地の利を生かして当初は有利に戦いを進めたものの、イギリス軍は地力に勝る陸軍、空軍力と、アメリカやEC及びNATO諸国の支援を受けた情報力をもってアルゼンチンの戦力を徐々に削っていき、6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊を上陸させた。同諸島最大の都市である東フォークランド島のポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)を包囲し、14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏。戦闘は終結した。
[編集] 戦争前夜
詳細は「サウスジョージア侵攻」を参照
1982年3月19日、フォークランド諸島沖合東約1000km東に位置するサウス・ジョージア島にアルゼンチン海軍の輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」が突如来航。20年以上前から放棄されていた捕鯨工場の解体と称してアルゼンチンのクズ鉄業者を名乗る60名近いアルゼンチン人を入国手続きを一切無視して上陸させた。上陸したアルゼンチン人たちはアルゼンチン国旗の掲揚や国歌斉唱を行うなど同島に居座るような行動を取る。これに対し、イギリス政府はアルゼンチン政府に厳重に抗議するとともに氷海巡視船「エンデュアランス」に武装した海兵隊22名と軍用ヘリワスプ2機を積載して同島海域に派遣[7]。するとアルゼンチン側は輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」を引き揚げさせたものの、数十人のアルゼンチン人を残していった挙句、3月26日にそのアルゼンチン人同胞の警護と称し、アルゼンチン海軍砕氷艦「バイア・パライソ」にて武装した海兵隊員約500名と物資をサウス・ジョージア島に送り込み、同島のリースハーバーに陣取る。
この直後からアルゼンチン海軍の動きが活発化し、軍事演習と称して空母、駆逐艦、フリゲート艦、潜水艦、輸送艦などの移動を開始。イギリス側は3月28日に海兵隊44名を増援として「エンデュアランス」に送り込むと同時に機動艦隊の派遣準備を始める[7]。3月30日、アルゼンチン海軍はフォークランド諸島への本格的な上陸作戦を開始。空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」を旗艦とし、駆逐艦7、フリゲート艦3、輸送艦3、揚陸艦1で編成された第79機動艦隊を陸軍4000名の将兵と共にフォークランド諸島へ出撃させる。
[編集] 「ロザリオ作戦」
詳細は「フォークランド諸島進攻」を参照
移動期間を含め3月30日から4月3日にかけて行われたアルゼンチン軍のフォークランド島上陸作戦は「ロザリオ作戦」と名付けられた。作戦計画では同国の国旗の色をとって「青作戦」(Azul)と呼ばれていたが最終的に改名された。上陸活動は大きく2つに分けられる。ゴムボートに分乗した少数のコマンド部隊による深夜の隠密上陸と、4月2日早朝に実行された水陸両用車両を使った比較的大掛かりな上陸である。
いずれにしてもアルゼンチン軍側も総員900名という、歴史的にみれば小規模な上陸作戦であるが、それに対抗しうるイギリス軍戦力は79名の海兵隊員に過ぎなかった。アルゼンチンの上陸軍は、圧倒的な戦力差を見せつけて早期にイギリス軍を降伏させることが狙いであった。また、国際世論を考慮して、できる限り無血で作戦を完遂させることが目標とされた。この作戦は直前にアメリカの偵察衛星により発見されており、アメリカは作戦の中止を求めたが、既にアルゼンチン軍部は引き返すことのできないところにまで来ていた。
4月1日夜、42型駆逐艦「サンティシマ・トリニダード」が東フォークランド島沖合1海里に到着して21隻のゴムボートを降ろし、1時間半ほどかけて92名の上陸コマンド部隊の隊員をそれらに移乗させた。ゴムボートは夜11頃、砂浜に到着し、コマンド部隊は2隊に分かれて目的地、すなわちイギリス海兵隊員が眠る兵舎と総督邸を目指した。兵舎制圧部隊は午前5時半に兵舎に到着したが、そこは無人であった。一方、総督邸に向かった16人の分遣隊は、そこで予想外に多い42名(31名の海兵隊員と11名の水兵)の武装兵と射撃戦闘を行うことになった。まもなく、無謀な突撃を行ったアルゼンチン軍コマンド隊員の1名が致命傷を負った。分遣隊は、遮蔽物に隠れ援軍を待つことになった。
水陸両用車両(アメリカ製のアムトラックやLVTP7水陸両用装甲兵員輸送車)を使った上陸部隊本隊による攻略目標は、スタンレー空港と島都スタンレーである。4月2日未明に、まず潜水艦「サンタフェ」から潜水具を装備した少数の偵察隊が空港の北部沿岸に上陸し、岬の灯台を占拠。次いで、揚陸艦「カボ・サン・アントニオ」 (ARA Cabo San Antonio) が、空港沖合から水陸両用車両20両を発進させ、偵察隊の灯台からの誘導を受けながら最初の目標であるスタンレー空港へ向かった。空港の滑走路には古い乗用車やコンクリートの塊がアルゼンチン軍機の着陸阻止の目的で置かれていたものの、空港は無人であったため、上陸部隊は容易に空港を占領することができた。
[編集] アルゼンチン軍によるポート・スタンレー占領
その後もスタンレー空港から島都に向かう途中に遭遇した若干の抵抗を除けば、イギリス海兵隊からの反撃は無く、北部海域に展開していたアルゼンチン艦隊旗艦の空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」から発艦した輸送ヘリコプターによるアルゼンチン海兵隊の増援も到着し、島都のスタンレーもまもなくアルゼンチン軍の占領するところとなった。
イギリスのレックス・ハント総督は、圧倒的な兵力を擁するアルゼンチン軍の将軍からの降伏勧告を受け入れ、抵抗するイギリス海兵隊へ武器の放棄を命じた。4月2日午前9時半にイギリス軍は降伏し、アルゼンチン軍はフォークランド諸島全域を手中に置いた。
この作戦でアルゼンチン軍は戦死者1名、負傷者数名を出したが、アルゼンチン軍の当初の狙い通りイギリス軍に死傷者は出さなかった。後日、ハント総督とその家族および全イギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。
[編集] アルゼンチン軍によるサウス・ジョージア島占領
ポート・スタンレー占領の報を受けたサウス・ジョージア島のアルゼンチン海兵隊は同日4月2日に同島の占拠を開始。リースハーバーに留まっていた約500名のアルゼンチン海兵隊員の内、40名が砕氷艦「バイア・パライソ」に移乗してピューマヘリコプター2機による制圧作戦を開始。増援として派遣されたアルゼンチン海軍A69型フリゲート「ゲリコ」の支援を受けながら翌日4月3日正午より島都のグリトビケンに上陸を開始した。
対してサウス・ジョージア島守備隊のイギリス海兵隊はわずか23名と圧倒的不利に立たされていたが、アルゼンチン側の降伏勧告を拒否。地の利を生かして激しく応戦し、上空援護を行っていたアルゼンチン海軍のピューマヘリを機関銃で撃墜。さらにキングエドワードポイント埠頭近海に接近し、機関砲による援護射撃を行っていた「ゲリコ」へ84mmカールグスタフ無反動砲とM72 LAWによる攻撃を加えて主砲や対艦ミサイル発射機を使用不能に追い込むなどした。
約2時間に渡る戦闘の後、弾薬の尽きたイギリス海兵隊は全員アルゼンチン軍に降伏。イギリス側の軽傷者1名に対し、アルゼンチン側は死者4名重傷者1名という結果に終わった。 スタンレーのイギリス海兵隊と同じく捕虜となった守備隊のイギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。
[編集] 国際社会とECの反応
4月3日には、アルゼンチンとイギリスの間の開戦を受けて開かれていた国連安全保障理事会において決議第502号が出され、アルゼンチンのフォークランド諸島一帯からの撤退を求めた。
翌4月4日には、アルゼンチン政府が国内にある全てのイギリス資産を凍結した。これに対して、4月10日にはイギリスが加盟するECが対アルゼンチン経済封鎖を承認し、西ドイツやフランスなどの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行った。なお4月29日にはアルゼンチン政府はアメリカによる調停案を拒否した。
[編集] チリの反応
アルゼンチンの隣国のチリは、以前からパタゴニアのビーグル海峡地域においてアルゼンチンと国境問題を抱え、たびたび小規模な武力衝突を起こしていた上に、1981年末には戦争寸前となるなど対立状況が続いていたことから、大統領アウグスト・ピノチェトはアルゼンチンを「侵略者」として非難してイギリスへの支援を表明し、自国内の基地を提供するなど積極的にイギリスに協力した。
さらに、チリが戦争のどさくさにまぎれて参戦してくることを恐れたアルゼンチンが、イギリスとの戦争中にもかかわらず対チリ戦に備えて多くの戦力を本土に温存せざるを得ない状況に追い込むなど、実質的にイギリスの同盟国として機能した。
[編集] イギリス軍の攻撃準備とアルゼンチン軍守備隊の戦力増強
4月3日にイギリス政府から機動艦隊編成の命を受けたイギリス軍では派遣部隊と機動艦隊の編成が急ピッチで進められた。艦隊旗艦とされた空母「ハーミーズ」ともう一隻の空母「インヴィンシブル」にはそれぞれ新たに編成されたイギリス海軍第800飛行隊12機、第801飛行隊8機のシーハリアー FRS.1が配備された。このシーハリアーは当時の新型空対空ミサイルであったAIM-9Lサイドワインダーを搭載していた。また、空軍のハリアー GR.3に空母で運用するための改造(防水措置やレーダートランスポンダーの増設等)が施された他、空対空戦用のミサイルランチャーの増設も行われたが、結局このランチャーはハリアー GR.3の運用が対地攻撃のみに限定されることになったため、後に増援として空母に配備された際に取り外された。
更に本来核攻撃用に配備されていたイギリス空軍の第44、第55、第101飛行隊のバルカン爆撃機が長距離爆撃のために慣性航法装置の改良や通常爆弾21発の投下が可能なように改造され、パイロットらは空中給油の再訓練を行った。
イギリス海軍は4月5日に艦隊旗艦の空母「ハーミーズ」を中核とした空母2、駆逐艦10、フリゲート艦13、揚陸艦8隻、輸送艦他支援艦16の計49隻から成る機動艦隊である第317任務部隊をポーツマス港より出撃させた。