研修医に捧げるtips 研修医に捧げるtips
あるいは,「いつまでもヤブと思うなよ」 ーグラウンドにはもちろん地雷が埋まっている.しかしゼニも落ちている.ー
ー自信という名の導火線,油断という名の信管,不安という名の探知機ー
一人医長の学習法
教科書
休む: なぜ頑張るのがイェローカードなのか カスガ先生の回答 まずは休憩されたし,臨床医の不安
症例検討:突然死
話す,言葉: 他者に対して・自分に対して 沈黙の使い方 診断をつけるよりも 大切なこと 客商売とは何か 禁句:"かわいそう"と"頑張っ て" "大うつ病性障害"なる言葉の問題点,タ イに行きましたか?
書く:退院時要約利用法,今日書かなければ永遠に書けない,症例報告を大切に,院内盗難事件の犯人,紹介状に略号を使ってはならない, 処方箋は日本語で書くべし,カルテは公文書である(あるいはあなたは松坂大輔である),忙しいときほどカルテを書くこと
診る,聴く: Script Concordance Test 面接の社会科:医療面接の社会的要素 誤診の形成過程 腱反射:呪縛からの脱却,医者にとっての家族の診断,心筋梗塞は胸痛では来ない, 徒然草 第百四十三段,病歴に科学を・教育に病歴を
飲む,食べる
手技:経鼻胃管と検尿試験紙,挿管,綿球の大きさ,採血時の酒精綿,新しい創傷治療
ネットでお勉強,Radiology Teaching Files 頚椎XP 胸部XP Teaching File:舌区の肺炎?,舌区の無気肺
検査のtips: HbA1c,
薬: 散剤や顆粒剤の濃度の問題 TPN (IVH)の際の微量元素,眠られぬ夜のために,解熱剤見直しの提案,チエナムとデパケン
お説教: 限界を知るのは伸びるため 教育&生物学的以外の要素 当事者意識未来について謙虚であること ロールモデルを見つけるな 悩む・もやもやするを大切に 何もしない勇気 派手な症候学よりも なぜ放射線科技師は医師を呼ばな かったのか? 神経内科レジデントへの手紙1 免許の意 義 アナログ性と不確実性 ホームページを作る のなら ストレスを避けるには お素人さん向け,地雷原の諸君へ,カッコつけようぜ,大変な紙切れ,なぜあなたは医者をやるのか,大穴狙いの癖,宗教の世界
今は昔の物語: 本塁打ではなく 空振り大歓迎, 研修:医師Aの場合,私の研修医時代,(専門医という名の素人たち,検査前確率:私の場合) 渾沌七竅に死す,負けない○○,恐怖感
限界を知るのは伸びるため
在宅診療の見学を勧めたら、早速始めてくれました。そのやりとり:
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以前、先生に、生物学的診断以外のことは、在宅で学ぶのが一番、というアドバイスをいただきました。昨日、東京で家庭医のトレーニングを受けた先生について、在宅往診を行いました。ALSでBiPAPの人がいたり、ものすごくまじめな介護をしている娘さんがいたり、いろいろな場面に遭遇しました。まだ、一日だけなので、なんとも言えませんが、医療にはいろいろな側面があることを改めて知った気がします。継続的に、少しずつですが、見学させていただこうと思っています。
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こういう世界もあるのか と素朴で新鮮な驚きを感じたでしょう。問診力は、患者さんと一緒に物語を紡ぐ力です。しかし、病院の中だけで働いていれば、患者さんがこれまでどういう人生を歩んできて、どのような環境でどんなふうに生活しているかは、全くわかりません。乏しい想像力で、デタラメに想像するしかありません。しかし、在宅診療の経験によって、問診力は飛躍的に増大します。
人の家の中までずかずか入り込んで、下の世話にまで関わる。そこまでして、患者さんや家族が、医者を育てようとしてくれるのです。患者さんも家族も、医者を育てているとは全く意識していませんが、家の中に入り込んだ医者の方は、患者さんの実生活と歴史に直に触れて、育てられていることを実感できます。
病院勤務医の世界だけしか知らなければ、病院勤務医としての自分の限界がわかりません。病院勤務医以外の世界を知ることによって、初めて、病院勤務医としての自分の限界が認識できます。自分の限界を認識して初めて、その限界をどうやって広げようかという戦略を立て、実行できます。
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他者に対して・自分に対して
1.短期的な課題:他者(例:医師にとっての患者、患者家族、看護師)に対して
○パターナリズム要求と自立宣言という、相反するアイテムを、自分の都合のいいように使い分けるダブルスタンダードを押し立ててくる相手と常に対峙しなくてはならないのが医者という商売
○相手が持っているそのダブルスタンダードを、状況によって、相手によって、どの程度責めるか、たしなめるか、気づかせるか、黙認するか、常に判断を求められる。
2.中長期的な課題:自分という他者に対して
○山のあなたの空遠くに、光り輝くデジタルな正解があるはずだという妄想に取り憑かれている自分に気づけるか?その妄想から解放されると楽になれることに気づけるか?
○「わからない」を使いこなせるか?
当事者意識
(医学部3年生とのやりとりから)
> なぜか、最も印象に残っているのは、先生が深夜の宿直室で怖くて一人で震えている時
> の話であったり、大晦日に除夜の鐘を聞きながら病理解剖して過ごしている時の話です。
> なぜ、僕が池田先生に興味を持ったかということが、僕自身にとって最
> も大事な部分でした。それは、やはり、先生がある程度はっきりと、自分の惨め
> な、隠しておきたいだろう思い出を口に出されるからだろうと思います。
一番単純に表現すれば,「医師として不安だらけの私の体験談に共感したから」ということになるでしょう.「共感」というアイテムを使うと,他者を自己の鏡として使えます.私に興味を持ったということは,私を自分の鏡として使えると判断したからです.
自己とは他者である
内田 樹も「自分とは他者である」と言っていたと思いますが,今はちょっと原典が見当たりません.
自分と他者を区別できないミラーニューロン
> 他人や、もしかすると、自分自身への興味を失っているからではないかと思います。
これも,「医師になるにあたって不安だらけの自分」から目を背けたかった
と表現できます.自分への興味が湧いてくること.それが当事者意識です.その対極が,当事者意識を失った状態,つまり「評論家」です.「このままでは日本の医療は崩壊してしまう」と心配するのは典型的な評論家活動です.多く人は,日本全体のことより,自分の人生,自分の家庭,自分の患者さんのことの方がはるかに優先順位が高くて,当事者意識を持たなくてはならないのに.
どんな人間にとっても,自分自身は暗黒大陸です.探検するのが怖いのです.自分の中にとんでもないものが見つかってしまう恐怖感があるので,多くの人は,「自分のことは自分が一番よくわかっている」という根拠無き妄想にどっぷり浸かって一生を過ごし,何事に対しても評論家のままで死んでいきます.
でも,自分自身に興味・好奇心を持ち,自分の頭の中を探検するのは,実はとても楽しいことです.だって
●困り事,悩み事は全て他者に影響された自分の中から生まれてくる.そのroot-cause
analysisの作業だから.その作業で,困り事,悩み事を大幅に減らすことができるから.
●自分が研究対象だから,いつでもどこでも種も仕掛けも不要
未来について謙虚であること
お手紙ありがとう。大丈夫だよ。学生の頃から君を見ていてそう思う。君は自分でもやっていけるかどうか、常に悩み、これからも悩み続けるだろうけど、悩むということは思考停止に陥ってないってことだから、どうぞ安心して悩み続けてください。
何しろ、安心して悩むどころか、安心して絶望する人生もあるぐらいですから。
向谷地 生良 安心して絶望できる人生 日本放送出版協会 777円
> きっと悩むことは止められないまでも,私も少しは自信が欲しいんです.
いいね。そう、自信は少しでいい。たくさんあると思考停止になるから。
では少しの自信をつけるにはどうするか?実は簡単だ。どん底だと思った時が絶好のチャンス!と覚えておけばいい。もし今がどん底なら今が絶好のチャンス。いつもどん底だと思ったら、いつでも自信をつけるチャンスがある。
どん底だと確信できるのだったら、どん底であるエビデンスをお持ちに違いない。つまり事態がそれ以上悪くならないって確信しているってわけだ。これが自信でなくて何が自信だろうか。
人生、一寸先は闇だという。結構だ。一寸先が闇ということは、二寸先が奈落の底か、あるいは光り輝く世界か、全くわからないということに他ならない。
我々は神ではない。だから、「わからない」ということに不安になる必要は全くない。明日も明後日も十年先も二十年先も、この先ずっと奈落の底が続くと決めつける傲慢さを恐れ、未来について謙虚でありたい。
なぜ頑張るのがイェローカードなのか
それは継続性を考えていないから。一体いつまで頑張るんだい?一体何様のつもりだい?一生、頑張るつもりかい? 自分は不死身だと思っているのかい?頑張るのを止めるエンドポイントを明確にできないのならば、初めから頑張るなんて言わないこった。
沈黙の使い方
沈黙は典型的な非言語性コミュニケーションである。沈黙の使い方にかねてから興味があるので、普段の面接でも、意識して沈黙を使っていると、面白い発見に巡り会える。何よりも、自分が沈黙を徒に恐れず、道具として興味を持って使っている満足感が大きい。そもそも対話自体が、交互に沈黙する作業だ。
通常,沈黙というと,直接対話を思い浮かべるが,必ずしもそれだけではない.顔を合わせての面談と、電話相談の大きな違いの一つに、後者では、沈黙が非常に使いにくく、誤解を生みやすい点が上げられる。メールのやりとりでの,返事を書く間隔も沈黙の一つであり,必ずしもすぐに返事をすることが最良の結果につながるとは限らない.
ロールモデルを見つけるな
ロールモデルを見つけることが大切というドグマに惑わされてはならない.大切なのは,ロールモデルからの距離を見つけることだ.
ロールモデルというコンセプトには1人の人間を神格化するリスクが常につきまとう.そのリスクを低減するためには,常に複数のロールモデルを持ち札として,常日頃から個々のロールモデルの長所・短所を吟味しておき,現在自分が抱えているタスクを行なうに際して,どのロールモデルのどんな長所を使うか,そのロールモデルの短所を補うために,他のロールモデルのどの長所を使うか,そういう,リスク・ベネフィットを最適にするような組み合わせを考える必要がある.このような長所・短所を吟味のために,距離が必要なのだ.
悩む・もやもやするを大切に
「悩む」,「もやもやする」ことに不安感を持たず,「慎重に考えているんだ,思考停止に陥っていないんだ」と捉えること,その上で,その悩み,もやもやを後で閲覧可能な形に記録すると,論点と落としどころが見えてくる,あるいは,悩み,もやもやを意識下から掘り出して,適切な仲間と共有し,吟味してもらう そうすれば,悩みや,もやもやは,リスク低減のための大切な資源に転換できるというわけだ.特に,見切り発車や思考停止に「決断」というラベルを貼って賞賛されがちな速度重視の御時世では.
散剤や顆粒剤の濃度の問題
具体例としてテグレトールがあります。錠剤はテグレトール錠100mg、テグレトール錠200mgとなっており、間違いはないのですが、テグレトール細粒 50%が別にあります。
例えば、経管栄養の人には細粒を処方するわけですが、私はいつも、"カルバマゼピンとして○○mg"とわざわざ付記するか、あるいは敢えて一般名処方をし ていました。些細なことのように見えますが、血中濃度に常に神経質になっていなければならない薬剤なので、大きなストレスで、なぜ、こんな嫌がらせのよう な細粒を作るのだろうと、処方する度に会社を呪っていました。
何もしない勇気
"わからない時は動かない"ってのは,山登りで道に迷った時と臨床の共通の鉄則だが,この鉄則を守るのは,実はとても難しい."何もしない"のには勇気が いる.なあに,私が言っているんじゃない.羽生善治が言っ ている.
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難しい決断の場面では、誰しも答えを単純化したい、明確化したい欲求に襲われます。でも、あえて答えを決めず、方向性だけを決める。そうした曖昧さや漠然 とした状況を残しておくことも大切なことだと思います。ある意味、それは答えを出さないことに対する不安や恐怖に打ち勝つことができるかどうかという問題 です。
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一人医長の学習法
研修医の方々は,通常,指導医の飯塚病院での道場で,私が7年目で,当時850床の旭中央病院で、神経内科医一人で、上級医もなく,どうやって自分の仕事 の評価を受けていたのかと問われて、
○一番基本的な、そして大切なフィードバックをくれる相手は患者さんです。患者さんに助けてもらうのです。困った時の患者さん頼みです。患 者さんにどうやってうまく助けてもらうか。そこを学ぶのも研修ですね。みなさんが、意識的にせよ、無意識にせよ、上級医をを評価するときも、その上級医が 患者さんから学ぶ態度を重視するでしょう。
○患者さんには,ご本人が亡くなった後にも教えてもらいました.つまり,年400体と解剖がめちゃくちゃ多かった病理にも、病棟の看護師 休憩室と同様の気楽さでしょっちゅう顔を出して、専門領域の全く異なった、まるきり他人の症例でも、肉眼剖検所見と臨床上の問題を対比させる訓練をした。
○病理での脳の肉眼切り出し(brain cutting)には、たとえ受け持ちでなくても全例立ち会って、臨床所見と肉眼病理所見を照らし合わせた。
○症例報告を積極的に書いた(時間がなくて旭にいる間は英文1報、日本語3報しか書けなかったけど、症例報告を書くのは、自分の仕事を外在 化させて、世間から厳しい評価を受けることで、自分の仕事の質を高めることができるのです。論文を書くのは有名になるためではありません。自分が批判され る立場に立つことです)
○他の診療科の同僚、上級医と、彼らの専門領域での診療で、自分の疑問を遠慮なくぶつけた。7年目だったけど、呼吸器や消化器の症例検討会にも積極 的に顔を出した。
○自分の師匠(母校で出身教室の教授)が月に一回、回診に来た時に,診断や治療方針がわからなかったり,迷ったりする症例を診てもらっって,疑問を どんどんぶつけた.
○もちろん,人に教えることで自分が学んでいた。研修医(当時私は7年目)、看護師、放射線科技師、臨床検査技師といった人々と議論してフィード バックを受けていた。
教科書
Bedside Diagnosis. An Annotated Bibliography of Literature on Physical Examination and Interviewing.本ではありません.身体診察エビデンス論文集というべきものです.ここには,頭部の聴打診 Auscultatory percussion--of headで慢性硬膜下血腫が診断できる
Guarino JR, Auscultatory percussion of the head. Br Med J. 1982;284:1075-7.
The data herein suggest that finger and stethoscope are nearly the equivalent of computed tomography in detecting such masses as subdural hematomas. てな論文が紹介してあったりして,たまげます.
The patieny history evidence-based approach. Lange ; ISBN: 0071402608
おなじみ、日本でも長年医学教育に携わってきたTierney 先生の、病歴聴取定跡集と申しましょうか。様々な訴えでの病歴の取り方:たくさんのcommon diseaseで、さまざまな訴えの感度,特異度,あるいは尤度比のエビデンスが得られており、非常に興味深い本です.
Sharon E. Straus (著) Evidence-based acute medicine:Evidence Based Acute Medicine Churchill Livingstone
common diseasesや救急外来で問題となる疾患の病歴,診察所見,検査所見の感度,特異度が充実.名 郷直樹&亀井三博先生による日本語訳も出ています.
Steven R. McGee (著). Evidence-Based Physical Diagnosis. W B Saunders Co ; ISBN: 0721686931 ;
こちらは、診察所見の感度,特異度が充実しています.こちらも日 本語訳が出ています.
ACP Clinical Skills Collection on DVD :値段は100ドル.内容はArthrocentesis and Joint Injection, Counseling for Behavior Change,Sports Medicine Musculoskeletal Examination, Using Skin Biopsy in the Office, The Pelvic Examination, Efficiency through Effective Communication, Clinical Breast Examinationということで,今ひとつ物足りないので,私は買っていないが,内容を見た人は教えてください.手技もののビデオで,日本で作成して 市販しているものは,高くて内容が貧しいのが困りものです.
休む
カスガ先生の回答
"のめりこむ,一途になる,激情に走る,こういった態度は騒がしいだけです。医師に必要なのは,若干のシニカルさと強迫的傾向,そして羞恥心で す。" (カ スガ先生の答えのない悩み相談室第二回:週刊医学界新聞 第2634号 2005年5月23日より)
今時,都立墨東病院精神科部長勤め上げられる医者なんか,見つかるもんかと思っていたのだが,度胸のある人というのはいるもんだ.こうでないと地雷 原は歩けない.
まずは休憩されたし
多感な、いつも自信が持てない、そして,自分には医者が合っていないんじゃないかって考えている、そんな,私と同じ悩みを持つ医学生、研修医、そして,そ れとは全く反対に,厚顔無恥なゆえに,自分が医者であることに,これまで何ら疑問を持たずに,運良く医者を続けてこられた人々にも,読んでもらいたい。
医 学生のメンタルヘルスを考える
名 郷直樹の研修センター長日記 13R うれしいような,かなしいような
臨床医の不安
臨床医には,臨床医でしかないことに不安を感じる臨床医と,臨床医でないことに不安を感じる臨床医の二通りがあると思っています.
私の場合は,学生の頃から,臨床医でしかない状態に不安を感じていました.臨床医は,もともと自尊心が高い人がほとんどなのに,上司や仲間から厳し い評価を受けやすく,競争も厳しい.患者・家族の要求度も高いのに,努力してもいい結果が出るとは限らない.時には,悪い結果の責任を取れと攻撃を受ける こともある.
そんなストレスが多い職業に自分が耐えていけるとは思えなかったのです.だから,逃げ場,つまり臨床医以外の道も,できれば複数確保しておかねばな らない.そう思っていました.その結果が現在の私の姿です.
現場が怖いのです.学部の二年生の時,現場に出入りするようになってから今まで,ここ四半世紀ずっとそうでした.人並みに白衣を着て聴診器を持つだ けでは満足せず,ハンマーまで持って,地雷がどこに埋まっているか,隅から隅まで知り尽くしているような顔をしていても,やはり怖い.もちろん,その恐怖 感を持ちつづけているからこそ,ここまで大事故に遭わず(と思い込んでいるだけかもしれない)やってこられたのですが.
さて,冒頭のニつの型ですが,医学生の頃からはっきり二通り分化して,以後,相の移動は起こらないのか?あるいは臨床経験を経て相の移動が起こるこ とがあるのか?
症例検討
突然死:進行したアルツハイマー病で長期ほぼ寝たきりで入院中の89歳の女性でした。 家族からは、万が一のことがあっても心肺蘇生
はしないでもらいたいとの希望があり、診療録にも明記してありました。ある夏の日の午前3時、胸が苦しい(痛いではなかった)と病棟看護師に訴えた時はす でにショック状態。ベッドサイドまで歩いて3分、走って1分の病院宿舎にいる私が駆けつけた時は心肺停止。
執刀は私がやらせていただきますと言って、剖検のお願いをご家族に快くご了解いただきました(家族に対して剖検の説明をする時に、病理解剖医も積極 的に関与するようにと、Death of the teaching autopsyと題した最近のBMJのdebate(BMJ 2003;327:802)に提案がありましたが、こういう時に主治医が執刀すると宣言できるのは強みです)。
解剖前に私が予想していたのは、
1.死因となる明らかな病変が見つからない(時に経験します。何らかの不整脈が死因と想像するだけです)、
2.肺梗塞
3.心筋梗塞
でした
解剖は私が主執刀者で入りました。型どおり皮切、破骨鉗子で肋骨を切って胸郭をはずした途端、息を呑みました。その次には、"なんだあ、こりゃあ" という、うめき声しか出ませんでした。
普通は心膜と脂肪で黄色-クリーム色のはずの心臓が真っ黒なのです。縦隔でクリーム色なのは萎縮した胸腺だけ。"タンポナーデだろう"と、落ち着い た声の上司(病理部長。専門は神経病理ですが、後で聞いたところ2例ほど同様の経験があったそうです)。彼が側にいてくれなければ、パニックで、大血管か ら心臓をはずす術もわからなくなっていたでしょう。心膜をY字切開したところば、確かに血液がどっと流れ出しました。
一体どこから血が出たのか、これも部長の指示で、慎重に心臓と大血管を切り出しました。大動脈弁輪 1cm上に刃物で切ったような切れ目があり、そこからの出血でした。瘤を作らず、動脈壁全層にわたって裂けて、タンポナーデという形になって亡く なったわけです。これを生で見せられて腰が抜けそうになったもわかっていただけると思います。
既往歴では、高血圧症、高脂血症、糖尿病といった動脈硬化症の危険因子はありませんでしたが、大動脈には89歳という年齢相応の(89歳ですから高 度です)動脈硬化性変化がありました。大動脈には、肉眼的にそれ以外には特別な病変はありませんでした。腹部動脈には動脈瘤はありませんでした。(89歳 と言えば、ほとんどの人の大動脈は高度の動脈硬化をきたしています。剖検時、はさみで切開する時は、若い人はゴムのような柔らかさがありますが、89歳で すと、女性でも男性でも細かい石をまぶした厚紙を切るようにがりがり音がします。)
脳は臨床診断通り、典型的なアルツハイマー病でしたが、脳梗塞、脳出血は、新鮮なものはもちろん、陳旧性のものもありませんでした。なお、血清梅毒 反応は陰性でしたし、大動脈の病理組織でも梅毒を示唆する所見はありませんでした。
まとめると、89歳という高齢の女性。瘤を作らず、全層にわたって裂けて、いきなりタンポナーデ→突然死という形で、長期臥床、それも就眠中に発症 した大動脈解離でした。文献的には、大動脈解離は女性に多いという報告があったと思いますが、正確なところは?